幕末期の土佐藩主。文政(ぶんせい)10年10月9日生まれ。分家山内豊著(とよあきら)の長男、宗家豊惇(とよあつ)の養子。1848年(嘉永1)15代目の藩主となり、隠居後、容堂(ようどう)と号す。分家出身のため苦労したが、ペリー来航後の対外的危機の緊迫のなかで、開明的な吉田東洋(よしだとうよう)らを登用して藩政の改革を推進。あわせて将軍継嗣(けいし)問題に関係し、雄藩連合運動を進めた。松平慶永(まつだいらよしなが)(春嶽(しゅんがく))、島津斉彬(しまづなりあきら)、伊達宗城(だてむねなり)とともに「天下の四賢侯」といわれるゆえんである。1859年(安政6)安政(あんせい)の大獄に際し、家督を豊範(とよのり)(豊惇の弟)に譲り隠居したが、幕府からはさらに謹慎を命ぜられる。翌年謹慎を解かれてからは、将軍徳川家茂(とくがわいえもち)に随従して上洛(じょうらく)するなど、松平慶永、伊達宗城らと公武合体を周旋。他面、1863年(文久3)秋から翌年(元治1)にかけて、武市瑞山(たけちずいざん)らの尊攘(そんじょう)派を弾圧するとともに、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)らの開明派を登用した。その政治的立場は、幕府独裁には反対するが、尊攘討幕の路線にもたたず、雄藩諸侯の協調による封建的分権制を温存する幕政改革にあった。そのことから、幕府と薩長(さっちょう)との対立のなかで、絶えず妥協的な動きを示すこととなった。そのため、1867年(慶応3)に後藤象二郎が坂本龍馬(さかもとりょうま)の影響を受けて大政奉還論を展開したとき、この主張が武力行使を伴わず、藩体制の温存に役だつと考えて支持し、自ら幕府に建白した。また王政復古後、新政府の議定(ぎじょう)となったが、直後の12月9日夜開かれた小御所(こごしょ)会議において、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)に「辞官納地」を迫る岩倉具視(いわくらともみ)と大激論したのも同じことであろう。容堂の酒好きは有名で、激論した小御所会議にも酔って出席しており、伊達宗城からは「酔狼君(すいろうくん)」とあだ名されている。また自ら「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」と称したほどであった。交遊の深かった松平慶永らとともに、幕末の政治過程において、開明的藩主として改革的ではあるが妥協的な存在として知られる。明治5年6月21日没。
[池田敬正]
『平尾道雄著『山内容堂』(1961・吉川弘文館)』
(福地惇)
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1827.10.9~72.6.21
幕末期の大名。土佐国高知藩主。父は分家南屋敷山内豊著(とよあき)。号は容堂(ようどう)。1848年(嘉永元)宗家を襲封。当初は門閥譜代層に実権を握られたが,ペリー来航後中央政界に台頭し,吉田東洋を登用,海防強化をめざして藩政改革を推進。将軍継嗣問題・条約勅許で井伊直弼(なおすけ)に敗れ,59年(安政6)隠居・謹慎。62年(文久2)復権し,幕府の文久の改革を支援。その間藩内では土佐勤王党の武市瑞山(たけちずいざん)一派が台頭するが,63年高知に戻りこれを弾圧。64年(元治元)参与会議に参加,意見対立に望みを失い高知に引きこもる。67年(慶応3)後藤象二郎の建議により将軍徳川慶喜(よしのぶ)に大政奉還を建白。徳川家の保全に努めたが王政復古により失敗。一方,高知藩兵は戊辰(ぼしん)戦争で新政府軍の主力として戦った。維新政府で議定・上局議長などを歴任。
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…旧国名。土州。現在の高知県。土左国,都佐国とも記す。
【古代】
南海道に属する中国(《延喜式》)。ただし865年(貞観7)に介を加置され国司の構成は上国と変わらなくなった。《古事記》の国生み神話には〈建依別(たけよりわけ)〉という別称が記されている。《先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)》の国造本紀には波多国造として天韓襲命,土佐国造として小立足尼の名がみえ,律令制的な国の成立以前,この地は土佐・波多両国造の支配下にあった。…
…土佐国(高知県)高知に藩庁を置いた外様大藩。高知藩ともいう。藩主は山内(やまうち)氏で藩祖山内一豊以下16代。一豊は関ヶ原の戦のあと,遠江国掛川6万石の城主より土佐24万石(朱印高は20万2626石)に栄進,この恩顧の念が明治維新に際しても藩主の行動を制約した。通称石高24万石は,長宗我部(ちようそがべ)検地で打ち出された本田の地積を,1反=1石の率で換算した数字で,朱印高は本田に石盛(こくもり)をしたものである。…
…幕末の開明的な土佐藩主。大政奉還を建白したことで有名。豊信(とよしげ)と名のる。容堂は号。鯨海酔侯,九十九洋外史,酔擁美人楼などの別号をもつ。1848年(嘉永1)分家から入って襲封。黒船来航を契機に藩政改革に乗り出し,あわせて松平慶永や島津斉彬らと一橋慶喜を将軍継嗣に擁立する動きに参画。しかしことは成らず,安政の大獄の強圧のなかで隠退したが,謹慎を命ぜられた。62年(文久2)勅使東下のなかで活動を再開し,将軍後見職一橋慶喜らに朝幕間の調和を説き,公武合体をはかった。…
…一般に〈やまのうち〉とも読む。近世大名。藤原秀郷(ひでさと)の後裔という。一豊の祖父久豊は累代の地丹波から尾張に移り,子盛豊は尾張の岩倉城主織田信安に仕え家老を務めた。その次子一豊は掛川の城主から1600年(慶長5)土佐20万2600石余の藩主となる。以下,忠義,忠豊,豊昌,豊房,豊隆,豊常,豊敷(とよのぶ),豊雍(とよちか),豊策(とよかず),豊興,豊資,豊熙,豊惇,豊信(とよしげ),豊範と16代272年にわたり廃藩置県まで土佐藩主を務めた。…
※「山内豊信」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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