山内豊信(読み)ヤマウチトヨシゲ

デジタル大辞泉 「山内豊信」の意味・読み・例文・類語

やまうち‐とよしげ【山内豊信】

[1827~1872]江戸末期の土佐藩主。号、容堂。支藩から出て本藩を継ぎ、吉田東洋を登用して藩政改革を行った。一橋慶喜徳川慶喜)の将軍擁立に尽力し、公武合体運動・大政奉還に活躍。

やまのうち‐とよしげ【山内豊信】

やまうちとよしげ

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精選版 日本国語大辞典 「山内豊信」の意味・読み・例文・類語

やまのうち‐とよしげ【山内豊信】

  1. 江戸末期の大名。号は容堂。分家の山内豊著の子。養嗣子に迎えられ一五代土佐藩主となる。藩政の改革を進め、将軍継嗣問題では慶喜擁立、公武合体運動を進め、大政奉還を建白した。文政一〇~明治五年(一八二七‐七二

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「山内豊信」の意味・わかりやすい解説

山内豊信(やまうちとよしげ)
やまうちとよしげ
(1827―1872)

幕末期の土佐藩主。文政(ぶんせい)10年10月9日生まれ。分家山内豊著(とよあきら)の長男、宗家豊惇(とよあつ)の養子。1848年(嘉永1)15代目の藩主となり、隠居後、容堂(ようどう)と号す。分家出身のため苦労したが、ペリー来航後の対外的危機の緊迫のなかで、開明的な吉田東洋(よしだとうよう)らを登用して藩政の改革を推進。あわせて将軍継嗣(けいし)問題に関係し、雄藩連合運動を進めた。松平慶永(まつだいらよしなが)(春嶽(しゅんがく))、島津斉彬(しまづなりあきら)、伊達宗城(だてむねなり)とともに「天下の四賢侯」といわれるゆえんである。1859年(安政6)安政(あんせい)の大獄に際し、家督を豊範(とよのり)(豊惇の弟)に譲り隠居したが、幕府からはさらに謹慎を命ぜられる。翌年謹慎を解かれてからは、将軍徳川家茂(とくがわいえもち)に随従して上洛(じょうらく)するなど、松平慶永、伊達宗城らと公武合体を周旋。他面、1863年(文久3)秋から翌年(元治1)にかけて、武市瑞山(たけちずいざん)らの尊攘(そんじょう)派を弾圧するとともに、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)らの開明派を登用した。その政治的立場は、幕府独裁には反対するが、尊攘討幕の路線にもたたず、雄藩諸侯の協調による封建的分権制を温存する幕政改革にあった。そのことから、幕府と薩長(さっちょう)との対立のなかで、絶えず妥協的な動きを示すこととなった。そのため、1867年(慶応3)に後藤象二郎が坂本龍馬(さかもとりょうま)の影響を受けて大政奉還論を展開したとき、この主張が武力行使を伴わず、藩体制の温存に役だつと考えて支持し、自ら幕府に建白した。また王政復古後、新政府の議定(ぎじょう)となったが、直後の12月9日夜開かれた小御所(こごしょ)会議において、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)に「辞官納地」を迫る岩倉具視(いわくらともみ)と大激論したのも同じことであろう。容堂の酒好きは有名で、激論した小御所会議にも酔って出席しており、伊達宗城からは「酔狼君(すいろうくん)」とあだ名されている。また自ら「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」と称したほどであった。交遊の深かった松平慶永らとともに、幕末の政治過程において、開明的藩主として改革的ではあるが妥協的な存在として知られる。明治5年6月21日没。

[池田敬正]

『平尾道雄著『山内容堂』(1961・吉川弘文館)』



山内豊信(やまのうちとよしげ)
やまのうちとよしげ

山内豊信

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朝日日本歴史人物事典 「山内豊信」の解説

山内豊信

没年:明治5.6.21(1872.7.26)
生年:文政10.10.9(1827.11.27)
幕末の土佐(高知)藩主。幼名輝衛,のちに兵庫助。容堂と号す。藩主山内氏分家山内豊著の長子。弘化3(1846)年家督を継いだが,嘉永1(1848)年,藩主豊煕(豊信従兄),豊惇(同)が相次いで病没,急遽本家の養子となり,第15代藩主を襲封。当初は隠居豊資に藩政指導の実権を制約されたが,嘉永6年黒船来航を機に俄然藩政改革に着手,吉田東洋を抜擢し海防強化政策を展開した。将軍継嗣問題では一橋慶喜擁立派に与して積極的な朝廷工作を敢行。だが,南紀派の井伊直弼が大老に就任,条約調印を断行,将軍継嗣を紀州慶福に決定すると,安政6(1859)年2月依願隠居し容堂と号した。同年10月謹慎を命じられ,以後2年半江戸品川鮫州の別邸に謫居した。藩祖山内一豊以来の徳川将軍家への深い恩顧もあり容堂は公武合体を望んだ。文久2(1862)年4月,謹慎を解除されて一橋慶喜,松平慶永を支援して幕政改革・公武周旋に尽瘁した。このころ藩地では中央政局緊迫の影響を被って藩政府と尊攘派の抗争が昂進。謹慎解除直前には参政吉田東洋が尊攘派に暗殺され,その後尊王攘夷論が藩論となり武市瑞山一派が藩主豊範を擁して京都に繰り出し長州藩尊攘派に伍して幕府を掣肘した。 文久3年1月,将軍上洛に先立ち入京,公武合体を種々画策したが形勢利あらず,3月下旬高知へ退去し,旧吉田派の復権,藩政修復,武市派弾圧に着手した。時に朝議参与に任じられ,元治1(1864)年春上京して国事周旋に関与するが,参与会議の意見対立に絶望し病気を理由に高知に再び退散。武市瑞山を断罪し,軍事の整備,殖産興業政策を展開して状況の好転を待機したが,幕勢の衰運はとどまるところを知らず,ついに慶応3(1867)年7月,後藤象二郎の建言を用いて,大政奉還を将軍徳川慶喜に建白。その後も徳川氏の権力保全に腐心したが王政復古から鳥羽・伏見の戦で望みを断たれた。維新政府の議定,内国事務局総督,刑法官知事,学校知事,制度寮総裁,上局議長を歴任し,明治2(1869)年7月に麝香之間祗候の優待を受けて隠棲した。墓所は東京都品川区下総山墓地にある。<参考文献>平尾道雄『容堂公記伝』

(福地惇)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「山内豊信」の意味・わかりやすい解説

山内豊信
やまのうちとよしげ

[生]文政10(1827).3.7.
[没]明治5(1872).6.21. 東京
幕末の土佐藩主。第 10代藩主豊策 (とよかず) の5男豊著 (とよあきら) の子。号は容堂。嘉永1 (1848) 年 11月襲封。第 14代藩主となる。識見が広く人材を登用して名君の聞えが高く,明治維新の序幕をなす大政奉還の演出者として著名。将軍継嗣問題では一橋慶喜 (→徳川慶喜 ) を擁して処罰を受け,藩主を豊範に譲った。文久2 (62) 年公武合体の趨勢のなかで,松平慶永らとともに幕政参与を委嘱され,朝幕間の斡旋に努めた。慶応3 (67) 年薩長両藩による倒幕の動きが強まると,坂本龍馬らの建策に従い,いちはやく将軍慶喜に大政奉還を説いて実現させ,次いで王政復古に際しては議定として公議政体論を唱え,徳川氏処罰に反対した。明治政府では内国事務総裁をつとめ,明治2 (69) 年病にかかり辞官した。詩や書をよくし,「鯨海酔侯」「九十九洋外史」などの雅号をもった。なお,土佐ではやまのうちと呼ばず,やまうちと呼ぶ。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「山内豊信」の解説

山内豊信
やまうちとよしげ

1827.10.9~72.6.21

幕末期の大名。土佐国高知藩主。父は分家南屋敷山内豊著(とよあき)。号は容堂(ようどう)。1848年(嘉永元)宗家を襲封。当初は門閥譜代層に実権を握られたが,ペリー来航後中央政界に台頭し,吉田東洋を登用,海防強化をめざして藩政改革を推進。将軍継嗣問題・条約勅許で井伊直弼(なおすけ)に敗れ,59年(安政6)隠居・謹慎。62年(文久2)復権し,幕府の文久の改革を支援。その間藩内では土佐勤王党の武市瑞山(たけちずいざん)一派が台頭するが,63年高知に戻りこれを弾圧。64年(元治元)参与会議に参加,意見対立に望みを失い高知に引きこもる。67年(慶応3)後藤象二郎の建議により将軍徳川慶喜(よしのぶ)に大政奉還を建白。徳川家の保全に努めたが王政復古により失敗。一方,高知藩兵は戊辰(ぼしん)戦争で新政府軍の主力として戦った。維新政府で議定・上局議長などを歴任。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山内豊信」の解説

山内豊信 やまうち-とよしげ

1827-1872 幕末の大名。
文政10年10月9日生まれ。山内豊著(とよあきら)の長男。山内豊惇(とよあつ)の養子となり,嘉永(かえい)元年土佐高知藩主山内家15代。将軍継嗣問題に関与し安政の大獄で隠居謹慎となる。文久2年ゆるされて公武合体に尽力,3年土佐勤王党を弾圧し武市瑞山(たけち-ずいざん)らを処断。慶応3年大政奉還を建白,王政復古で議定(ぎじょう)となり幕府勢力の温存をはかるが失敗。酒をこのみ,鯨海酔侯(げいかいすいこう)と自称した。明治5年6月21日死去。46歳。号は容堂。
【格言など】歳酔三百六十回 鯨海酔侯(脱藩者の坂本竜馬を赦免したときの絵にそえた署名)

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旺文社日本史事典 三訂版 「山内豊信」の解説

山内豊信
やまのうちとよしげ

1827〜72
幕末の土佐藩主
号は容堂。1848年襲封。吉田東洋らを起用して藩政改革を行う。将軍継嗣問題では一橋派に属し,安政の大獄により謹慎を命じられ,のち隠居。'62年の幕政改革で参与となり,公武合体につとめた。'67年家臣後藤象二郎の意見を入れ,徳川慶喜 (よしのぶ) に大政奉還を建白して実現させ,公議政体論による徳川氏中心の列侯会議を主唱したが小御所会議で討幕派に押しきられた。のち王政復古で議定となった。

山内豊信
やまうちとよしげ

やまのうちとよしげ

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防府市歴史用語集 「山内豊信」の解説

山内豊信

「容堂」[ようどう]の号で知られています。土佐藩の十五代藩主で藩政の改革を行いました。安政の大獄により藩主を退いた後、長州・薩摩藩を中心とした武力で幕府を倒す動きをおさえるため、将軍徳川慶喜[とくがわよしのぶ]に大政奉還[たいせいほうかん]をすすめました。

出典 ほうふWeb歴史館防府市歴史用語集について 情報

百科事典マイペディア 「山内豊信」の意味・わかりやすい解説

山内豊信【やまのうちとよしげ】

山内容堂

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367日誕生日大事典 「山内豊信」の解説

山内豊信 (やまうちとよしげ)

生年月日:1827年10月9日
江戸時代末期;明治時代の大名
1872年没

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世界大百科事典(旧版)内の山内豊信の言及

【土佐国】より

…旧国名。土州。現在の高知県。土左国,都佐国とも記す。
【古代】
 南海道に属する中国(《延喜式》)。ただし865年(貞観7)に介を加置され国司の構成は上国と変わらなくなった。《古事記》の国生み神話には〈建依別(たけよりわけ)〉という別称が記されている。《先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)》の国造本紀には波多国造として天韓襲命,土佐国造として小立足尼の名がみえ,律令制的な国の成立以前,この地は土佐・波多両国造の支配下にあった。…

【土佐藩】より

…土佐国(高知県)高知に藩庁を置いた外様大藩。高知藩ともいう。藩主は山内(やまうち)氏で藩祖山内一豊以下16代。一豊は関ヶ原の戦のあと,遠江国掛川6万石の城主より土佐24万石(朱印高は20万2626石)に栄進,この恩顧の念が明治維新に際しても藩主の行動を制約した。通称石高24万石は,長宗我部(ちようそがべ)検地で打ち出された本田の地積を,1反=1石の率で換算した数字で,朱印高は本田に石盛(こくもり)をしたものである。…

【山内容堂】より

…幕末の開明的な土佐藩主。大政奉還を建白したことで有名。豊信(とよしげ)と名のる。容堂は号。鯨海酔侯,九十九洋外史,酔擁美人楼などの別号をもつ。1848年(嘉永1)分家から入って襲封。黒船来航を契機に藩政改革に乗り出し,あわせて松平慶永や島津斉彬らと一橋慶喜を将軍継嗣に擁立する動きに参画。しかしことは成らず,安政の大獄の強圧のなかで隠退したが,謹慎を命ぜられた。62年(文久2)勅使東下のなかで活動を再開し,将軍後見職一橋慶喜らに朝幕間の調和を説き,公武合体をはかった。…

【山内氏】より

…一般に〈やまのうち〉とも読む。近世大名。藤原秀郷(ひでさと)の後裔という。一豊の祖父久豊は累代の地丹波から尾張に移り,子盛豊は尾張の岩倉城主織田信安に仕え家老を務めた。その次子一豊は掛川の城主から1600年(慶長5)土佐20万2600石余の藩主となる。以下,忠義,忠豊,豊昌,豊房,豊隆,豊常,豊敷(とよのぶ),豊雍(とよちか),豊策(とよかず),豊興,豊資,豊熙,豊惇,豊信(とよしげ),豊範と16代272年にわたり廃藩置県まで土佐藩主を務めた。…

※「山内豊信」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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