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大村益次郎 おおむらますじろう

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

大村益次郎
おおむらますじろう

[生]文政7(1824).3.10. 周防
[没]明治2(1869).11.5. 大阪
幕末の洋学者。日本の近代的軍制の創始者。周防国吉敷郡鋳銭司村字大村に医者村田孝益の長男として生れ,幼名惣太郎,諱は永敏,通称を良庵といい,のち慶応1 (1865) 年蔵六と改称。緒方洪庵,P.シーボルトについてオランダ医学を学ぶ。

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デジタル大辞泉の解説

おおむら‐ますじろう〔おほむらますジラウ〕【大村益次郎】

[1825~1869]幕末の兵法家。周防(すおう)の人。初め村田蔵六と名乗った。戊辰(ぼしん)戦争にすぐれた軍事指揮を執った。日本の兵制の近代化に尽力したが、反対派浪士に襲われて死亡。

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百科事典マイペディアの解説

大村益次郎【おおむらますじろう】

幕末・維新期の軍政家,明治軍制の創設者。旧名は村田良庵,のち蔵六。名は永敏と称す。長州藩の医者の子。大坂の緒方洪庵の門で蘭学と医学を学ぶ。宇和島藩伊達宗城の推挙で幕府の蕃書調所に仕えたが,長州藩に呼び戻され,同藩の兵制改革に力量を発揮。
→関連項目咸宜園徴兵令適塾寺内正毅とんやれ節靖国神社

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

大村益次郎 おおむら-ますじろう

1824-1869 幕末の兵学者。
文政7年3月10日生まれ。緒方洪庵にまなび,伊予(いよ)(愛媛県)宇和島藩につかえる。幕府の蕃書調所,講武所につとめ,万延元年から長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩で軍制改革に参画。維新後,新政府の兵部大輔として近代兵制確立につとめたが,明治2年9月京都で神代(こうじろ)直人らにおそわれ負傷,同年11月5日に死亡。46歳。周防(すおう)(山口県)出身。本姓は村田。名は永敏。通称は惣太郎,蔵六。号は亮(良)庵。
【格言など】安価で軽便な四斤砲をたくさんつくってくれ(最期の言葉)

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朝日日本歴史人物事典の解説

大村益次郎

没年:明治2.11.5(1869.12.7)
生年:文政7.5.3(1824.5.30)
幕末維新期の政治家。明治陸軍建設の功労者。周防の鋳銭司村字大村(山口市)の医師村田孝益の子。幼名は惣太郎,のち良庵,蔵六。19歳で蘭医梅田幽斎に学び,翌年豊後(大分県)の広瀬淡窓に漢籍を学ぶ。23歳のとき大坂の緒方洪庵の適塾に入り,蘭学,医学を修め,塾長を務めた。この間,長崎を訪れ名医奥山静叔に学ぶ。27歳で父母を養うため帰郷して医を開業したが振るわず,宇和島藩に迎えられて西洋兵書の翻訳,軍艦製造等を指導。安政3(1856)年江戸に出て鳩居堂を開塾し,幕府蕃書調所教授手伝を経て講武所教授に就任。この間ヘボンに英語を学んだ。名声を聞いた長州藩は万延1(1860)年,出仕を命じた。帰藩して兵学を教え,兵制改革に携わる。慶応2(1866)年長州戦争には石見口の総参謀として幕府軍を壊滅させた。同4年1月,戊辰戦争が起こると,討幕軍として上洛した。維新政府の軍防事務局判事加勢を命ぜられ,軍政事務を担当,同年閏4月江戸に出て,上野彰義隊討伐,奥羽・北越の平定作戦に携わった。 総合的な視点で戦局を捉え,軍略は戦う前から必勝の成算をうかがわせるものがあった。西郷隆盛は大村の軍が進まないのをみて,部下将士のすすめるままに兵を率いて東上し戦地平定を申し出た。大村は西郷を諫め西郷の青森到着前に五稜郭が陥落。西郷は,大村の卓見に感服し,「我誤てり面を合はすに恥づ」とそのまま帰郷。同年10月軍務官副知事となり箱館(函館)を鎮定。ここに戊辰戦争は終結し,その戦の功により永世禄1500石を受ける。明治2(1869)年兵部大輔。軍制を徹底的に改革するため,陸軍はフランス,海軍はイギリスにならうこと,藩兵解隊,帯刀禁止,徴兵制度の採用等を建白。このため2年9月4日京阪地方旅行中,反対派士族の8人に襲われ,それがもとで死去した。<参考文献>伝記刊行会編『大村益次郎』,絲屋寿雄『大村益次郎』

(影山好一郎)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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防府市歴史用語集の解説

大村益次郎

鋳銭司[すぜんじ](現在の山口市)出身で、兵学や医学を研究して幕府や宇和島藩[うわじまはん](愛媛県)につかえました。のちに長州藩へ招かれ、第二次長州征伐[だいにじちょうしゅうせいばつ](四境戦争[しきょうせんそう])や戊辰戦争[ぼしんせんそう]で戦いの指揮をとって活躍し、明治政府では近代的な軍隊をつくる準備をすすめましたが、不満を持った人々に襲われ、そのケガがもとで亡くなりました。

出典|ほうふWeb歴史館
Copyright 2002,Hofu Virtual Site Museum,Japan
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世界大百科事典 第2版の解説

おおむらますじろう【大村益次郎】

1825‐69(文政8‐明治2)
幕末・維新期の軍政家。もと村田良庵,のち蔵六,大村益次郎に改める。名は永敏。長州藩小郡宰判鋳銭司村字大村の勘場(村役所)付医家に生まれる。医業を志し防府の蘭医梅田幽斎に入門し,その勧めにより豊後の広瀬淡窓に漢籍を学び,1846年(弘化3)大坂の緒方洪庵の適塾に医学と蘭学を学び,また長崎でシーボルトにも就学した。48年(嘉永1)に帰坂し,適塾塾頭に任じられ頭角を現した。50年帰郷して医業を開くも振るわず,53年宇和島藩の招きに応じ,高野長英の後任として兵器製造・洋学担当の雇士として兵書翻訳や軍艦製造などに従事した。

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大辞林 第三版の解説

おおむらますじろう【大村益次郎】

1824~1869) 陸軍の創立者。周防すおうの人。一時、村田蔵六と称した。適塾で蘭学を修め医師となる。のち長州藩で兵学を講じ、戊辰戦争では官軍を指揮。1869年(明治2)兵部大輔となり、兵制の近代化に尽力したが、守旧派に襲われ死去。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

大村益次郎
おおむらますじろう
(1825―1869)

長州出身の洋学者で近代的軍制の創設者。文政(ぶんせい)8年5月3日、村医村田孝益(むらたたかます)の長男として生まれる。幼名宗太郎(そうたろう)、通称永敏(ながとし)、一時村田蔵六(ぞうろく)と称した。蘭学者(らんがくしゃ)緒方洪庵(おがたこうあん)に師事。洋式兵学の専門家として宇和島藩に招かれてから、幕府に出仕、蕃書調所(ばんしょしらべしょ)、講武所(教授)を経て長州藩に仕える。一藩を超越した開明的知識人の発想をもち、伊藤博文(いとうひろぶみ)らの海外密航も斡旋(あっせん)。第二次長州戦争に備えて藩の軍制改革に従事、平民軍の編成に貢献。また、新式銃装備の充実に尽力し、購入のため自ら上海(シャンハイ)に渡った。開戦(1866)になると、石州口(せきしゅうぐち)参謀として優れた戦略を発揮した。王政復古後、明治新政府の軍事指導者となり、戊辰戦争(ぼしんせんそう)では彰義隊(しょうぎたい)征討に戦功をあげた。1869年(明治2)兵部大輔(ひょうぶたいふ)となる。封建制の解体が進んでいた長州藩の立場を背景に、兵権を天皇に帰属させた全国常備配置の「御親兵(ごしんぺい)」を編成し、ゆくゆくは国民皆兵をもって財政と両立させること、当面はフランス式軍制に拠(よ)りつつ、軍政の根拠地を京阪地方に置くことなど、国軍の基礎を建設する構想を実行に移すべく1869年7月視察に西下した。おりから、その政策は、武士層の特権剥奪(はくだつ)、洋式模倣の弊害をもたらすとして攘夷(じょうい)派の敵意を集めており、同年9月、同じ長州の不平分子らに京都の旅宿で襲撃され負傷、11月5日敗血症で死去した。46歳。その遺志は、山県有朋(やまがたありとも)ら長州系軍政家に継承され、やがて徴兵令の制定に発展する。また、1893年東京・靖国(やすくに)神社に銅像が建立された。[田中時彦]
『絲屋寿雄著『大村益次郎――幕末維新の兵制改革』(中公新書)』

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