大村益次郎(読み)オオムラマスジロウ

デジタル大辞泉 「大村益次郎」の意味・読み・例文・類語

おおむら‐ますじろう〔おほむらますジラウ〕【大村益次郎】

[1825~1869]幕末の兵法家。周防すおうの人。初め村田蔵六と名乗った。戊辰ぼしん戦争にすぐれた軍事指揮を執った。日本の兵制の近代化に尽力したが、反対派浪士に襲われて死亡。

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精選版 日本国語大辞典 「大村益次郎」の意味・読み・例文・類語

おおむら‐ますじろう【大村益次郎】

  1. 幕末の軍政家。初名村田蔵六。周防の人。町医師の子として生まれ、宇和島藩、幕府出仕などを経て、長州藩に出仕。長州征伐、戊辰(ぼしん)戦争に軍事的手腕を発揮。維新後、兵部大輔として近代兵制の確立につとめたが、反対派に刺殺された。文政八~明治二年(一八二五‐六九

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百科事典マイペディア 「大村益次郎」の意味・わかりやすい解説

大村益次郎【おおむらますじろう】

幕末・維新期の軍政家,明治軍制の創設者。旧名は村田良庵,のち蔵六。名は永敏と称す。長州藩の医者の子。大坂の緒方洪庵の門で蘭学と医学を学ぶ。宇和島藩主伊達宗城の推挙で幕府の蕃書調所に仕えたが,長州藩に呼び戻され,同藩の兵制改革に力量を発揮。第2次長州征伐戊辰(ぼしん)戦争で軍事指導に才腕をふるう。明治政府の兵部大輔として藩兵解散,徴兵制実施,鎮台鎮守府の設置など近代兵制の樹立に尽力したが,その急進性が守旧派の反感を買い,1869年反対派士族に襲撃され,その2ヵ月後に死亡。彼の構想は山県有朋らに受け継がれた。→招魂社
→関連項目咸宜園徴兵令適塾寺内正毅とんやれ節靖国神社

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改訂新版 世界大百科事典 「大村益次郎」の意味・わかりやすい解説

大村益次郎 (おおむらますじろう)
生没年:1825-69(文政8-明治2)

幕末・維新期の軍政家。もと村田良庵,のち蔵六,大村益次郎に改める。名は永敏。長州藩小郡宰判鋳銭司村字大村の勘場(村役所)付医家に生まれる。医業を志し防府の蘭医梅田幽斎に入門し,その勧めにより豊後の広瀬淡窓に漢籍を学び,1846年(弘化3)大坂の緒方洪庵の適塾に医学と蘭学を学び,また長崎でシーボルトにも就学した。48年(嘉永1)に帰坂し,適塾塾頭に任じられ頭角を現した。50年帰郷して医業を開くも振るわず,53年宇和島藩の招きに応じ,高野長英の後任として兵器製造・洋学担当の雇士として兵書翻訳や軍艦製造などに従事した。56年(安政3)同藩士として江戸に出,幕府の蕃書調所教授手伝,講武所教授に出仕。60年(万延1)軍制改革途上の長州藩に呼び戻され,雇士,馬廻士に準じ,のち手廻組に入り,博習堂用掛などを経て64年(元治1)藩校明倫館兵学寮教授になるなど同藩軍制改革に参画した。65年(慶応1)以後は,長州藩の実権を握った討幕派の指導者,木戸孝允,前原一誠らに重用され,西洋流の装条銃を中心とする近代的軍備を徹底させる慶応軍制改革に中心的役割を果たし,このころから農町兵の組織化を積極的に打ち出した。第2次長州征伐に際し,軍政用掛として軍略面を担当し,石州口軍事参謀として幕軍を敗走させ,全軍の作戦についても,大局観と現実性に秀でた戦略を提案し,軍政に不動の地位を得た。戊辰戦争には,新政府の軍務官,江戸府判事,鎮台府民政会計掛に任じられ,戦争終了後は,軍務官副知事,69年(明治2)兵部大輔となり,新政府の軍政を担当。藩兵解散,徴兵制実施,鎮台・鎮守府設置などの急進的な中央集権的軍制を立案した。これは,大久保利通らの藩兵親兵化政策と衝突するものであるとともに,守旧派藩士や地方草莽(そうもう)志士の憎悪を集め,同年京都木屋町で攘夷派の浪士に襲撃されて重傷を受け,その傷がもとで死亡した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大村益次郎」の意味・わかりやすい解説

大村益次郎
おおむらますじろう
(1825―1869)

長州出身の洋学者で近代的軍制の創設者。文政(ぶんせい)8年5月3日、村医村田孝益(むらたたかます)の長男として生まれる。幼名宗太郎(そうたろう)、通称永敏(ながとし)、一時村田蔵六(ぞうろく)と称した。蘭学者(らんがくしゃ)緒方洪庵(おがたこうあん)に師事。洋式兵学の専門家として宇和島藩に招かれてから、幕府に出仕、蕃書調所(ばんしょしらべしょ)、講武所(教授)を経て長州藩に仕える。一藩を超越した開明的知識人の発想をもち、伊藤博文(いとうひろぶみ)らの海外密航も斡旋(あっせん)。第二次長州戦争に備えて藩の軍制改革に従事、平民軍の編成に貢献。また、新式銃装備の充実に尽力し、購入のため自ら上海(シャンハイ)に渡った。開戦(1866)になると、石州口(せきしゅうぐち)参謀として優れた戦略を発揮した。王政復古後、明治新政府の軍事指導者となり、戊辰戦争(ぼしんせんそう)では彰義隊(しょうぎたい)征討に戦功をあげた。1869年(明治2)兵部大輔(ひょうぶたいふ)となる。封建制の解体が進んでいた長州藩の立場を背景に、兵権を天皇に帰属させた全国常備配置の「御親兵(ごしんぺい)」を編成し、ゆくゆくは国民皆兵をもって財政と両立させること、当面はフランス式軍制に拠(よ)りつつ、軍政の根拠地を京阪地方に置くことなど、国軍の基礎を建設する構想を実行に移すべく1869年7月視察に西下した。おりから、その政策は、武士層の特権剥奪(はくだつ)、洋式模倣の弊害をもたらすとして攘夷(じょうい)派の敵意を集めており、同年9月、同じ長州の不平分子らに京都の旅宿で襲撃され負傷、11月5日敗血症で死去した。46歳。その遺志は、山県有朋(やまがたありとも)ら長州系軍政家に継承され、やがて徴兵令の制定に発展する。また、1893年東京・靖国(やすくに)神社に銅像が建立された。

[田中時彦]

『絲屋寿雄著『大村益次郎――幕末維新の兵制改革』(中公新書)』


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朝日日本歴史人物事典 「大村益次郎」の解説

大村益次郎

没年:明治2.11.5(1869.12.7)
生年:文政7.5.3(1824.5.30)
幕末維新期の政治家。明治陸軍建設の功労者。周防の鋳銭司村字大村(山口市)の医師村田孝益の子。幼名は惣太郎,のち良庵,蔵六。19歳で蘭医梅田幽斎に学び,翌年豊後(大分県)の広瀬淡窓に漢籍を学ぶ。23歳のとき大坂の緒方洪庵の適塾に入り,蘭学,医学を修め,塾長を務めた。この間,長崎を訪れ名医奥山静叔に学ぶ。27歳で父母を養うため帰郷して医を開業したが振るわず,宇和島藩に迎えられて西洋兵書の翻訳,軍艦製造等を指導。安政3(1856)年江戸に出て鳩居堂を開塾し,幕府蕃書調所教授手伝を経て講武所教授に就任。この間ヘボンに英語を学んだ。名声を聞いた長州藩は万延1(1860)年,出仕を命じた。帰藩して兵学を教え,兵制改革に携わる。慶応2(1866)年長州戦争には石見口の総参謀として幕府軍を壊滅させた。同4年1月,戊辰戦争が起こると,討幕軍として上洛した。維新政府の軍防事務局判事加勢を命ぜられ,軍政事務を担当,同年閏4月江戸に出て,上野彰義隊討伐,奥羽・北越の平定作戦に携わった。 総合的な視点で戦局を捉え,軍略は戦う前から必勝の成算をうかがわせるものがあった。西郷隆盛は大村の軍が進まないのをみて,部下将士のすすめるままに兵を率いて東上し戦地平定を申し出た。大村は西郷を諫め西郷の青森到着前に五稜郭が陥落。西郷は,大村の卓見に感服し,「我誤てり面を合はすに恥づ」とそのまま帰郷。同年10月軍務官副知事となり箱館(函館)を鎮定。ここに戊辰戦争は終結し,その戦の功により永世禄1500石を受ける。明治2(1869)年兵部大輔。軍制を徹底的に改革するため,陸軍はフランス,海軍はイギリスにならうこと,藩兵解隊,帯刀禁止,徴兵制度の採用等を建白。このため2年9月4日京阪地方旅行中,反対派士族の8人に襲われ,それがもとで死去した。<参考文献>伝記刊行会編『大村益次郎』,絲屋寿雄『大村益次郎』

(影山好一郎)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大村益次郎」の意味・わかりやすい解説

大村益次郎
おおむらますじろう

[生]文政7(1824).3.10. 周防
[没]明治2(1869).11.5. 大阪
幕末の洋学者。日本の近代的軍制の創始者。周防国吉敷郡鋳銭司村字大村に医者村田孝益の長男として生れ,幼名惣太郎,諱は永敏,通称を良庵といい,のち慶応1 (1865) 年蔵六と改称。緒方洪庵,P.シーボルトについてオランダ医学を学ぶ。兵学を修め,宇和島藩御雇となったのち,蕃書調所で教授手伝い,さらに講武所で教授を歴任。明治2 (69) 年,兵部大輔となり,諸藩混成の士族的御親兵を国民的な近代軍隊へ改組するため,フランス陸軍,イギリス海軍を模範として一連の兵制改革を行なったが,旧士族の反感を買い,9月4日京都の止宿先で襲われ,刺された傷がもとで大阪の病院で死亡。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「大村益次郎」の解説

大村益次郎
おおむらますじろう

1824.5.3~69.11.5

幕末・維新期の軍政家。洋学・兵学に明るく,近代兵器と西洋的組織・陣法を備えた中央集権的軍隊を構想した。はじめ村田良庵,のち蔵六(ぞうろく),大村益次郎。名は永敏(ながとし)。周防国の医師の家に生まれる。緒方洪庵の適々斎塾で学び塾頭にまで進む。宇和島藩に出仕,1856年(安政3)江戸で鳩居堂を開塾。ついで蕃書調所(ばんしょしらべしょ)教授手伝,講武所教授として幕府に出仕。60年(万延元)萩藩に迎えられ慶応軍制改革に参画,66年(慶応2)の第2次長州戦争でその軍制・戦略の有効性が実証された。戊辰戦争でも軍略面で活躍。69年(明治2)新政府の兵部大輔(ひょうぶのたいふ)となり軍制改革を提案,藩兵の親兵化構想と衝突した。また守旧派・草莽(そうもう)志士にもうらまれ,同年京都で襲撃されて約2カ月後に没した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大村益次郎」の解説

大村益次郎 おおむら-ますじろう

1824-1869 幕末の兵学者。
文政7年3月10日生まれ。緒方洪庵にまなび,伊予(いよ)(愛媛県)宇和島藩につかえる。幕府の蕃書調所,講武所につとめ,万延元年から長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩で軍制改革に参画。維新後,新政府の兵部大輔として近代兵制確立につとめたが,明治2年9月京都で神代(こうじろ)直人らにおそわれ負傷,同年11月5日に死亡。46歳。周防(すおう)(山口県)出身。本姓は村田。名は永敏。通称は惣太郎,蔵六。号は亮(良)庵。
【格言など】安価で軽便な四斤砲をたくさんつくってくれ(最期の言葉)

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防府市歴史用語集 「大村益次郎」の解説

大村益次郎

鋳銭司[すぜんじ](現在の山口市)出身で、兵学や医学を研究して幕府や宇和島藩[うわじまはん](愛媛県)につかえました。のちに長州藩へ招かれ、第二次長州征伐[だいにじちょうしゅうせいばつ](四境戦争[しきょうせんそう])や戊辰戦争[ぼしんせんそう]で戦いの指揮をとって活躍し、明治政府では近代的な軍隊をつくる準備をすすめましたが、不満を持った人々に襲われ、そのケガがもとで亡くなりました。

出典 ほうふWeb歴史館防府市歴史用語集について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「大村益次郎」の解説

大村益次郎
おおむらますじろう

1824〜69
幕末・維新期の兵学者。近代軍制の創始者
長州藩出身。緒方洪庵に蘭学を学び医学・兵学を修める。長州藩の軍制改革を指導。第2次長州征討・戊辰 (ぼしん) 戦争の際,その作戦指導にあたった。1869年新政府の兵部大輔となり,武士団の解体と徴兵制の実施を説き,反対派士族に襲われて負傷し,死んだ。

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367日誕生日大事典 「大村益次郎」の解説

大村 益次郎 (おおむら ますじろう)

生年月日:1824年5月3日
江戸時代;明治時代の兵学者;萩藩士。軍制改革のリーダー
1869年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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