フランスの詩人、小説家、劇作家。2月26日、ナポレオン麾下(きか)の将校レオポルド・ユゴーLéopold Hugoとナント生まれの王党派の女性ソフィー・トレビュッシェSophie Trébuchetの三男としてブザンソンに生まれる。幼時はイタリア、スペインなど父の配属地を転々とし、のち別居中の母とともにパリに移り教育を受ける。後年『静観詩集』その他の著名な詩のなかでうたわれるフイヤンティーヌは当時の住居があった所で、母親ソフィーや代父ラオリー、ラテン語を学んだ神父などとともに幼時の精神形成に関与した。
[佐藤実枝]
ユゴーは早くから文学に熱中し、1819年トゥールーズの文華アカデミー・コンクールで一等賞を受賞、『コンセルバトゥール・リテレール』の発刊、処女詩集『オードと雑詠集』(1822)の出版で詩人としてデビューするが、初期作品には母親の影響でカトリック的、王党派的色彩が強い。22年10月アデール・フーシェAdèle Foucherと結婚。この時期の詩集は中世の絵画美への憧(あこが)れを示す『オードとバラード集』(1826)、ギリシア独立戦争に多く取材したエキゾチックな『東方詩集』(1829)で時代の好みへの敏感な反応を示す。小説では『アイスランドのハン』(1823)、サント・ドミンゴの奴隷の反乱を舞台にロマン派的主人公の自己犠牲を描いた『ビュグ・ジャルガル』(1826)、そして『死刑囚最後の日』(1829)ではすでに思想的に左傾化の兆しがみえる。
[佐藤実枝]
この時期ロマン派の指導者としてのユゴーの活動が演劇を舞台に本格化してくる。1827年戯曲『クロムウェル』につけた長文の序文によってユゴーは新演劇を模索する幾多の論争に一つの総合をもたらし、この序文は事実上ロマン主義の宣言書となった。当時アルスナル図書館長だったシャルル・ノディエのサロンがロマン派の推進母胎だったが、27年、ユゴー自身が中心となってノートル・ダム・デ・シャン街の自宅で作家・美術家を集めて「セナクル」cénacleを開き、名実ともに統率者となる。劇作ではコメディ・フランセーズにいったん受理された『マリオン・ド・ロルム』(1829)が稽古(けいこ)前に上演禁止になったため、急遽(きゅうきょ)『エルナニ』に着手、1か月足らずで完成、コメディ・フランセーズでの初演はいわゆる「エルナニ合戦」(観客の古典・ロマン両派の間に起きた乱闘騒ぎ)を引き起こしながらも観客を圧倒し、ロマン派劇全盛期を開く。古典主義的詩法では禁じられていた跨ぎ句(アンジャンブモン)enjambementや固有語(モ・プロプル)mots propresの使用によって、従来韻文劇に使用されてきた十二音綴詩型を柔軟化し、新しい演劇にふさわしい文体を創造したことが、とりわけ劇の分野でのユゴーの功績だった。
[佐藤実枝]
1830年7月、ポリニャックの極端な反動的法令を契機に7月革命が起こる。ユゴーは革命の若い英雄たちをたたえる詩を書いて自由主義派の『グローブ』紙に掲載、はっきり右翼陣営からの転向をみせた。翌31年、スコット風の長編歴史小説『ノートル・ダム・ド・パリ』が出版され大成功をみるが、詩作品では一変して内面的深化をみせる。『秋の木の葉』(1831、「子供がやってくると……」を含む)、私生活のほかに政治や歴史など多様なテーマを盛った『薄明の歌』(1835)、『内心の声』(1837)、『光と影』(1840、「オランピオの悲しみ」を含む)などがそれである。30年代初め、衝撃的な事件が彼の私生活を襲う――友人サント・ブーブと愛妻アデールとの恋愛、そして彼の生涯の愛人となるジュリエット・ドルーエJuliette Drouetとの出会い(1833)――これらの体験がユゴーをより深く人間的にしたといえる。劇作では『リュクレス・ボルジア』(1833)を含む散文劇三編でメロドラマに近づき、興行的には成功したが、彼の最良の戯曲は韻文劇『リュイ・ブラス』(1838)で、王妃に恋する従僕というロマネスクな筋立てのなかに民衆の未来を象徴する人物を描いて、ユゴー自身の将来の政治姿勢をも予告した。しかしロマン派劇の全盛期はすでに去っており、43年の大叙事詩的演劇『城主たち』の失敗を最後に劇作から遠ざかる。またこの年、新婚早々だった長女レオポルディーヌLéopoldineと夫シャルル・バクリーCharles Vacquerieの溺死(できし)事件というショックも重なり、ユゴーはしばらく筆を置いて政治に専念する。すでにアカデミー・フランセーズの会員(1841)だった彼は、45年上院議員に、48年の二月革命では共和政議員に選出され、ルイ・ナポレオンの大統領就任に力を貸したが、その後ナポレオンが反動化して帝政樹立を目ざすクーデターを起こすと、ただちに反撃に出て国外追放となり、以後19年に及ぶ亡命生活が始まる。
[佐藤実枝]
まずブリュッセルに亡命、ついでイギリス海峡のジャージー島(1852)、ガンジー島(1855)に移って創作に没頭する。13年の沈黙を破って『小ナポレオン』(1852)を書き、『懲罰詩集』(1853)でルイ・ナポレオンの圧政を痛罵(つうば)し、共和主義的理想を表明した。ついでユゴーの詩作の最高傑作といわれる『静観詩集』(1856)、人類進歩の思想を表明してフランス最大の叙事詩といわれる『諸世紀の伝説』の第一集(1859)、若々しく軽快な『街と森の歌』(1865)を出したが、ユゴーの名を時代と国境を越えて著名にした長編小説『レ・ミゼラブル』(1862)はこの期に完成した。ミリエル司教の与えた光明によって再生し、愛と献身に生きる囚人ジャン・バルジャンの物語は、民衆の苦悩をテーマとした社会小説として30年も前から温められてきただけに、ユゴーの思想の集大成といえる。先の『ノートル・ダム・ド・パリ』とともに三部作をなす『海に働く人々』(1866)は、ガンジー島で取材された。ほかに小説『笑う男』(1869)がある。
[佐藤実枝]
1870年、プロイセン・フランス戦争の敗戦によって帝政が崩壊すると、ユゴーは共和政の成立したパリに歓呼をもって迎えられる。帰国後はふたたび政治に参加、71年普通選挙でセーヌ県から選出され、国民議会で左翼を占めるが、まもなく新体制に失望して辞任する。その後ユゴーは次男シャルルCharlesを71年に、三男フランソア・ビクトルFrançois-Victor(シェークスピア全訳を完成した)を73年に失うという大打撃を受けたが、なお屈せず創作を続けた。この期の作品は、大革命時代の王党派の反乱に取材し、法と愛の相克を描いた『93年』(1874)、そして次男シャルルの二人の遺児ジョルジュとジャンヌへの愛をテーマに、素朴で優しい感動に満ちた『おじいさんぶり』L'Art d'être grand-père(1877)は、初版が数日で売り切れ、次々と版を重ねるほど愛読された。頑健そのものだったユゴーも翌78年、初めて軽い脳出血にみまわれ、以後は主として亡命中に書かれたものが弟子たちの手で次々と出版される。『至上の憐憫(れんびん)』(1879)、『ろば』(1880)、『精神の四方の風』(1881)、最後の韻文劇『トルケマダ』(1882)、『諸世紀の伝説』続編(1877、83)など。
1881年ユゴーは80歳の誕生日を迎え、パリ市民は祝賀行列を組んで彼の長寿を祝った。当時彼の住居があった通りはビクトル・ユゴー通りと改名された。しかし一方では、末娘アデールや生涯の愛人で忠実な助手でもあったジュリエットにも先だたれ(1883)、85年5月22日、この不死身の老人にも死が訪れる。「私は貧しい人々に5万フランを遺贈する。墓地には彼らの霊柩車(れいきゅうしゃ)で運ばれたい」という遺言にもかかわらず、先の誕生祝いにもまして盛大な国葬が営まれ、遺体は凱旋(がいせん)門下に安置され、200万の市民に見送られて偉人廟(パンテオン)に葬られた。
19世紀を通じ比類ない創作力と果敢な政治活動によって実践したヒューマニズムは、ユゴーを国家的な偉人としたが、とりわけ彼の真の天才はその詩的創造にある。「彼とほぼ同時代の詩人たちはユゴーの光に消されまいとして独自の境地を開拓せざるをえなかった……」(バレリー)といわれるように、ユゴーはその無尽蔵な語彙(ごい)とイメージの完璧(かんぺき)な駆使によって人間の感動の源泉に深く突き入り、フランス近代詩の巨大な礎石となったのである。
[佐藤実枝]
『A・モロワ著、辻昶・横山正二訳『ヴィクトル・ユゴー 詩と愛と革命』上下(1961・新潮社)』▽『辻昶著『ヴィクトル・ユゴーの生涯』(1979・潮出版社)』▽『赤井彰編訳『世界を創った人々24 ヴィクトル・ユゴー』(1980・平凡社)』▽『辻昶訳『東方詩集』(『世界名詩大成2』所収・1960・平凡社)』▽『豊島与志雄訳『死刑囚最後の日』(岩波文庫)』▽『辻昶・稲垣直樹訳『ユゴー詩集』(1984・潮出版社)』
フランスの詩人,小説家,劇作家。父はナポレオン軍の将軍で,母は王党派の家の娘。ブザンソンに生まれたが,教育はおもにパリで受け,少年時代から王党派の詩人として頭角を現した。1827年には,戯曲《クロムウェル》に付した有名な序文の中で古典主義の演劇を批判し,ロマン主義の文学運動に理論的な支柱を与えた。さらに30年には,ロマン派戯曲の典型である《エルナニ》を上演し,その後ロマン派が10年以上の間文壇で栄える契機をつくった。同年の七月革命の影響を受けて,ユゴーはしだいに自由主義や人道主義の思想に目ざめていったが,すでに《死刑囚最後の日》(1829)にもこうした傾向は顕著であった。31年刊行の小説《ノートル・ダム・ド・パリ》では彼は中世の文化に対する深い理解を示した。また30年代には,《秋の木の葉》(1831)や《内心の声》(1837)などの一連の詩集を刊行し,政治,歴史,道徳などの社会的な問題もうたった。なおこのほかにも《王は楽しむ》(1832初演)や,《リュイ・ブラース》(1838初演)をはじめとするロマン派演劇をやつぎばやに発表した。しかしその後政界に進出したことなどもあって,以後長い間文学作品を発表していない。48年の二月革命のあとユゴーは大きく共和政支持に傾き,51年に起こったルイ・ボナパルト(後のナポレオン3世)によるクーデタに抵抗して祖国を去り,最初ベルギーに,次いでイギリス海峡のジャージー島,ガーンジー島に移り住んで,19年にわたる亡命生活を送った。この間,《懲罰詩集》(1853)などを出版してナポレオン3世を攻撃する一方,人類の歴史と宇宙の生成を独自の思想と想像力によって再構成しようとして,《静観詩集》(1856)や《諸世紀の伝説》第1集(1859),それに死後出版された《サタンの終り》(1886)や《神》(1891)などを執筆した。彼はまた光に向かう〈民衆〉の進歩をこうした神話創造の中核と考え,《レ・ミゼラブル》(1862),《海に働く人々》(1866)などの小説も発表した。1870年ナポレオン3世の帝政が崩壊すると,彼は祖国に戻った。その後も民主主義擁護の大詩人として国民的尊敬を集めながら健筆を振るい,《諸世紀の伝説》第2集(1877),第3集(1883)などの詩集や,フランス革命を舞台にした小説《九十三年》(1874)を刊行した。
ユゴーは19世紀の文学と社会をつねにリードし続けた改革者であり,その自由で多様性に富んだ詩作はフランス近代詩の基礎を築いた。日本でもユゴーは明治の初期から知られるようになった。また自由民権の運動家たちから,文筆と政治活動をとおして社会の自由を守る偉大な人物として評価され,さらに雑誌《国民之友》では,作家としての天才的な力量を称賛された。1902年(明治35)に黒岩涙香が《レ・ミゼラブル》を翻案し,《噫無情(ああむじよう)》と題して出版したが,以後ユゴーは主としてこの作品の著者としてだけ知られてきたきらいがある。
執筆者:辻 昶+稲垣 直樹 ユゴーは優れたデッサン家でもあった。1840年ころからの約500点のデッサンは,彼の詩における壮大な幻想を視覚化するものといえる。クレヨン,インキ,炭,セピアなどの併用,切り抜いた紙を当てて色をつける合羽刷り,あるいはデカルコマニーなどを駆使する独特の方法をとった。そして豊かな想像力によって,インキのしみや指紋の跡を荒れ果てた古城,ゴシック教会,嵐の海など,ロマン主義の怪異で劇的な主題に変容させた。作品の多くは木口木版などで,版画化され,G.ドレやナントゥイユCêlestin Nanteuil(1813-73)の挿絵版画に影響を与えた。
執筆者:小勝 礼子
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1802~85
フランスの詩人,小説家,劇作家。ロマン派の詩人グループの指導者で,演劇にもロマン派を確立した。小説の代表作『ノートルダム・ド・パリ』『レ・ミゼラブル』。政治家としても活躍した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…文学においては,ガランによる《千夜一夜物語》の翻訳(1704‐17),モンテスキューの《ペルシア人の手紙》(1721),ボルテールの《マホメット》(1741)などがその早い例で,啓蒙主義的文明批評のにおいが強かったが,しだいにエキゾティシズムに傾いてゆく。ユゴーの《東方詩集Orientales》(1829),ラマルティーヌの《東方紀行》(1835)などがロマン主義文学者による代表例である。音楽では,モーツァルトの《後宮よりの誘拐》(1782)のトルコ趣味が早い例で,後にはベルディの《アイーダ》(1871初演)のような,エジプト風俗に関してかなり歴史的考証を経たものも見られる。…
…とくにナントで国民公会議員カリエの指導により実行された大量の銃殺刑,溺死刑はよく知られており,約6000名の反徒とみなされた囚人がほとんど裁判を受けることなく処刑された。なお,ユゴーの歴史小説《93年》や,バルザックの小説《ふくろう党》などには,この革命期の反乱のありさまと背景がよく描かれている。【小井 高志】。…
…
【19世紀】
[ロマン派演劇と同時代風俗劇]
タンプル大通りが〈犯罪大通り〉と呼ばれたのは,そこで流行した〈メロドラム〉(メロドラマ)という勧善懲悪お涙頂戴のサスペンス劇で無闇と殺人が行われたからであるが,G.deピクセレクールを代表とするこの大衆演劇は,1830年代から40年代にかけてのロマン派による文学戯曲変革の演劇的下地を作る。ユゴーによるロマン派演劇宣言《クロムウェルの序文》(1827),コメディ・フランセーズにおけるユゴー《エルナニ》初演(1830)の際の騒動(いわゆる〈《エルナニ》の戦い〉)から《城主》の失敗(1840)までの10年間を中心にするロマン派の詩人や作家の劇作は,〈犯罪大通り〉の繁栄とともに19世紀フランス演劇の第一の大きな時期を構成するが,しかしそこにはすでに,文学史と演劇史との〈ずれゆき〉をかいま見せている。たとえば,シェークスピアを神としたこの世代の最も重要な作品であるミュッセの《ロレンザッチョ》は世紀末まで上演されず,商業的成功としては,大デュマの〈時代物〉(〈マントと剣の劇〉と呼ばれる。…
…同紙にジュール・ベルヌの《仏曼二学士の譚》(1887)などを翻訳連載した。ビクトル・ユゴーの《随見録》《探偵ユーベル》を周密な文体で翻訳し,ユゴーの人道主義を基盤にした批評の筆をふるい,国会新聞社を経て万朝報(よろずちようほう)社に入り同紙を刷新した。ユゴー《死刑前の六時間》《懐旧》などで翻訳王の名をほしいままにした。…
…フランスの詩人,小説家ユゴーの長編小説。1862年出版。…
…しかし,その影響力は大きく,例えばバイロンのギリシア解放戦争への参加と死はヨーロッパに衝撃を与え,ギリシア独立支持運動と古代ギリシア文学愛好熱高揚の引金となった。一方,スコットランドの過去の歴史をよみがえらせ,中世騎士道精神と郷土愛を賞揚するスコットの一連の歴史小説Waverley Novelsは,歴史学と小説に中世賛美の機運を興し,過去の時代の精確な生き生きとした描写を目ざす一種のロマン主義的写実主義とも称すべき傾向を生み,ユゴーの《ノートル・ダム・ド・パリ》やメリメの《シャルル9世年代記》,あるいはミシュレの《フランス史》等に影響を与えた。 ドイツでは,1770年ころからフランスの文化支配を脱し,啓蒙主義に対抗して個人の感性と直観を重視する反体制的な文学運動シュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)が展開されたが,そのほぼ20年後にシュレーゲル兄弟,ティーク,シュライエルマハーらによって提唱されたロマン主義文学理論は,この運動の主張を継承し,フランス古典主義に対抗するものとしてのロマン主義を明確に定義づけ,古代古典文学の再評価とドイツに固有の国民文学の創造を主張した。…
…イタリアのロマン派劇は,概して国民主義的・政治的傾向が強かった。 マンゾーニの影響で,フランスでスタンダールが《ラシーヌとシェークスピア》を書いたのは1823年だが,V.ユゴーが《クロムウェル序文》でロマン派演劇の綱要を発表した1827年には,ドイツのロマン派はすでに終わろうとするころであった。ユゴーはシェークスピアの理念を借りて,さまざまのジャンルを総合したドラマを提唱した。…
※「ユゴー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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