小野路村(読み)おのじむら

日本歴史地名大系 「小野路村」の解説

小野路村
おのじむら

[現在地名]町田市小野路町、多摩市永山ながやま南野みなみの鶴牧つるまき落合おちあい豊ヶ丘とよがおか貝取かいどり

真光寺しんこうじ村の西にあり、南は野津田のづた村。中世小山田おやまだ庄に含まれ、当時より交通の要所であった。田園簿に小野路町とみえ、田九七石余・畑一一五石余、幕府領。ほかに千手せんじゆ院領一二石・万松ばんしよう寺領七石。寛文六年(一六六六)検地では高五六一石余(「検地帳」町田市史)。元禄一〇年(一六九七)村内九七石余が旗本松平領となったという(「万記録」島崎家文書)。元禄郷帳では高五八七石余。正徳四年(一七一四)の村明細帳(小島資料館蔵)では旗本松平領九七石余・同岡部領三八石余で、ほかに高四五二石余とあるのは幕府領と考えられる。家数一三二・人数五五六。幕府領の一部は享保六年(一七二一)より旗本山口領となっており(「文政二年山口知行所覚書」同館蔵)、同一九年の旗本山口領分の年貢は米納合一七〇俵余・永納合三三両二分(元文二年「年貢皆済目録」同館蔵)。明和三年(一七六六)の明細高帳(同館蔵)では旗本松平領九七石余・同岡部領三八石余・同神谷領一六〇石余・同山口領二六五石余。「風土記稿」では人家一四〇、小名は荻久保おぎくぼ瓜生うりゆう別所べつしよ下堤しもづつみ万松寺谷ばんしようじやとだい宿しゆく岩子いわごなど。天保一四年(一八四三)とされる村明細帳(小島資料館蔵)では高五六一石余、家数五八・人数二九四、大工一・木挽一。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報