日本歴史地名大系 「町田市」の解説 町田市まちだし 面積:七一・六二平方キロ東京都の中央部南側に位置する。北部は多摩市・八王子市、南部から東部にかけては神奈川県津久井(つくい)郡城山(しろやま)町・同県相模原市・同大和市、横浜市瀬谷(せや)区・緑(みどり)区・青葉(あおば)区、川崎市麻生(あさお)区に接する。同県境を境(さかい)川が流れる。北西部の相原(あいはら)地区は丘陵尾根地帯(標高三〇〇メートル前後)で、南東方向に複雑な支丘を広げる。町田市街地一帯は標高約七五メートルほどで、相模原台地の延長部とされる。JR横浜線・小田急小田原線・東急田園都市線・京王相模原線・国道一六号・同二四六号が通り、東名高速道路の横浜町田インターチェンジがある。〔原始・古代〕市域は大半が多摩丘陵に属する地形で、都内でも遺跡の分布密度がきわめて高い地域となっている。後期旧石器時代は境川流域の忠生(ただお)B地区、鶴見(つるみ)川流域の向(むかい)遺跡などが代表格で、ナイフ形石器・尖頭器・細石器などの製作跡や礫群が検出されている。縄文時代草創期は完形復元されたなすな原(はら)遺跡の隆起線文土器が著名で、川島谷(かわしまだに)遺跡群の爪形文土器も知られる。同早期では炉穴群の田中谷戸(たなかやと)遺跡、撚糸文期集落の成瀬西(なるせにし)遺跡・日影山(ひかげやま)遺跡など、前期集落は三〇〇点余の土製状耳飾や搬入土器(大歳山式)を出土した三矢田(みやた)遺跡や本町田(ほんまちだ)遺跡などがある。同中期集落は大正一五年(一九二六)に内陸部の住居跡発見第一号として国史跡に指定された高ヶ坂(こうがさか)石器時代遺跡をはじめ、環状集落の鶴川(つるかわ)J地点などがあり、近年三〇〇軒ほどの環状集落の約半分が完掘された境川流域の忠生A地区では加曾利E期の土偶が一〇〇個体余と勝坂期の翡翠製大珠や彫刻のある長さ二メートル近い石棒などが出土した。同後期では土壙群と列石からなる田端(たばた)環状積石遺構があり、至近の田端東(たばたひがし)遺跡では同時期の住居跡が調査された。近年この積石遺構から眺望できる丹沢(たんざわ)山塊と冬至の日没との関係が注目されている。集落ではなすな原、一〇〇基近い土壙墓が調査された野津田上の原(うえのはら)などの遺跡があり、同晩期ではなすな原の集落が群を抜き、在地以外に東海・北陸・中部・東北など地方色豊かな土器類、工芸的な透彫の土製耳飾、石棒石剣類、土偶・硬玉など多彩な出土品をみせている。弥生時代は鶴見川上流域で前期終末期の土坑が調査された綾部原(あやべはら)遺跡、中期集落には椙山神社北(すぎやまじんじやきた)遺跡、本町田遺跡、鉄剣の一部や完形の磨製石鏃・扁平片刃・柱状片刃石斧などが出土した東雲寺上(とううんじうえ)遺跡がある。古墳時代の遺跡のうち集落では前期が南大谷(みなみおおや)遺跡、中期が小山田(おやまだ)No.13遺跡(住居跡一軒)、後期が武蔵岡(むさしがおか)遺跡・なすな原遺跡が代表格。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「町田市」の意味・わかりやすい解説 町田〔市〕まちだ 東京都南西部にある市。三方を神奈川県に接する。 1954年町田村と南村が合体し町田町となる。 1958年鶴川,忠生 (ただお) ,堺の3村と合体し市制施行。中央部を鎌倉街道,鶴川街道が南北に通じ,本町田には古くから市場が開設されて,付近農村部の中心として繁栄。横浜開港後は,横浜と八王子とを結ぶ町田街道沿いの原町田が生糸の集散地として発展した。鉄道開通後は JR横浜線と小田急電鉄が交差する町田駅周辺に商業を中心とする市街地が形成されて,市の中心は本町田から原町田へ移った。第2次世界大戦後は,首都圏の都市開発区域に指定され,木曽,山崎,鶴川,藤の台,境川など都市再生機構の団地をはじめ,大規模な宅地造成が進展,北部の多摩丘陵には多摩ニュータウンが建設されている。それに伴って学校や百貨店,スーパーマーケットなども進出。史跡に高ヶ坂石器時代遺跡がある。 JR横浜線,小田急電鉄小田原線,京王電鉄相模原線,東京急行電鉄田園都市線,国道 16号線,246号線,東名高速道路が通り,横浜インターチェンジがある。面積 71.55km2。人口 43万1079(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by