日本歴史地名大系 「尾白内村」の解説
尾白内村
おしろないむら
近世から明治三五年(一九〇二)までの村。箱館六箇場所の一つ茅部場所に含まれていたが、寛政一二年(一八〇〇)に「村並」となり(休明光記附録)、天保郷帳の「従松前東在」に「鷲ノ木持場尾白内」と記される。安政五年(一八五八)
「ヲシラナヰ」(蝦夷迺天布利)、「ヲシラナヘ」(蝦夷巡覧筆記)などとも書く。寛政年間には「ヲシラナヰといふ浦あり。うべもアヰノの、ヲシラナヰのノボリと、此内浦の山をいふにぞありける」(蝦夷迺天布利)、「砂浜ユキ、夫ヨリヲシラナヘ川ヘ木立原処々小谷地道ユキ、モリヘ行ク本道ヘ出ル、ヲシラナヘ川アリ、幅三四間、川越ヘ砂浜ユキ、夫ヨリコウ道ユキ、モリヘ出ル」(蝦夷巡覧筆記)、「ヲシラナイ村、六軒二十人、名主子之介、年寄丑之介」(木村「蝦夷日記」寛政一〇年五月二八日条)などとみえる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報