森村(読み)もりむら

日本歴史地名大系 「森村」の解説

森村
もりむら

[現在地名]茅部かやべ郡森町字本町ほんちよう・字御幸町みゆきちよう・字清澄町きよずみちよう・字上台町うわだいちよう・字霞台かすみだい・字森川町もりかわちよう・字新川町しんかわちよう・字姫川ひめかわ

近世から明治三五年(一九〇二)までの村。箱館六箇場所の一つ茅部場所に含まれていたが、寛政一二年(一八〇〇)に「村並」となり(休明光記附録)、天保郷帳の「従松前東在」に鷲ノ木わしのき持場「森」と記される。安政五年(一八五八)鷲ノ木から独立して森村となり、同年村並から正式に村となった(書付并伺書類)。成立時は西は鷲ノ木村、東は尾白内おしろない村、北は海に面していた。

シャクシャインの戦に関連して「津軽一統志」に「もり 小川有」とみえるのが早い。「和漢三才図会」に「モリ」とある。享保十二年所附では「一 志か辺(中略)も里 打浦 とち崎 一 加屋べ 乙しつ辺」などが記される。寛政年間になると「海辺づたひに朝川わたりて、聞つる杜ちふ村になり」(蝦夷迺天布利)、「モリ、大野村ヨリ此処マテ山越ヘ九里、此所山遠ク木アリ、内浦山右ニ附、当処ヨリ野道少シ行、夫ヨリ砂浜ユキ、川アリ、幅六七間、川越ヘ砂浜ユク」(蝦夷巡覧筆記)と記される。文化年間(一八〇四―一八)になるとさらに「此川より森と云所あり、一里計、同所には人家十五六、夷家七八軒、(中略)森村より石川原まて半里計」(「毛夷東環記」同三年四月条)、「大白ナイを行過き森村に至る、廿戸斗、入口山手に蝦夷屋弐三軒有、村端小川有、亦柳原と云ふ所夷家十二三軒有、人家も入込なり」(「西蝦夷地旅行日記」同六年七月一九日条)、「家数二十軒程、夷家八軒程、此所海岸鯡場なり」(同年高麗「蝦夷日記」)などと記される。松浦武四郎は森村として「人家三十軒計、夷人六七軒入接。(中略)小商人弐三軒、農作人、旅籠屋、漁者のミ也」と記す。土産は新鱈、鰤、鯡、数子、昆布、帆立貝、海鼠、椎茸、ヒラメ、カスベ、油コ、ホツケ、鱒など。馬がある(「蝦夷日誌」一編)。嘉永六年(一八五三)の調査では鷲ノ木持森の家数三二・人数一八一、馬四二、産物は煎海鼠・鯡・鰯粕・滋鮭。

森村
もりむら

[現在地名]東城町森

田黒たぐろ村の西に位置する。南西の田殿たどの村から流入する田殿川は村の中央部で北から流れる飯谷いいたに(湯谷川)、東部でやはり北から流れる川除谷かわけだに川を合わせ田黒村に出て田黒川となる。またまきたおを水源とする三草みくさ川は当村南の川鳥かわとり村に流れる。集落は田殿川・飯谷川・川除谷川・三草川沿いに開けた平地の周辺に散在する。古く砂鉄採取のための鉄穴流しによって開かれた村と考えられ、村内各所に人工的な残丘や急崖が見られる。

品治ほんじ新市しんいち(現芦品郡新市町)に本拠を置いた宮氏一族の宮師盛がその菩提寺である中興ちゆうこう(現新市町)に宛てた文和四年(一三五五)一一月一日付安堵状(「西備名区」所収)に中興寺領として「西条森村内田地」とあり、当時森村を含む当地辺りは宮氏の支配を受け、森村は西条の範囲内であったことなどが知られる。

村高は、元和五年(一六一九)の備後国知行帳では五一四石余であるが、正保三年(一六四六)の地詰帳(「国郡志下調書出帳」所収)では畝数九二町八反余で高六三八石余、さらに寛文一二年(一六七二)の新開地詰で六石余増高、宝永三年(一七〇六)の地では畝数七五町三反余で六四四石余となる(同書出帳所収)

森村
もりむら

[現在地名]宇ノ気町森

河北潟の北方、丘陵の西先端に独立した標高二三メートルの小丘を囲み集落が立地。北・西・南の三方は宇ノ気川・悪水あくすい川・気屋きや川による沖積低地。中世は金津かなつ庄の内。「天文日記」天文五年(一五三六)三月二九日条に「金津庄森の国光」とみえる。森の住人国光が享禄の錯乱で退転したのち、野瀬のせ(現津幡町)の五郎左衛門尉が下間頼盛を介してその跡職を押領したが、河北郡中が国光の帰住を認め、五郎左衛門尉に国光跡職を返還させた。このとき本願寺証如は、国光と河北郡の三人の旗本・在所に宛てて三通の折紙を送っている。現在、地元には「新保の森」の呼称があり、中世には新保村に属していたとみられるが、国光は金津村にあった「黒森宮」の神主であったと考えられ(→金津庄、当地は金津村に含まれた可能性もある(高松町史)

森村
もりむら

[現在地名]山武町森

矢部やべ村の西に位置し、東部を作田さくだ川が流れる。建武元年(一三三四)八月三日の一色頼行寄進状(法華堂文書)に、「寄進 上総国北山辺郡森郷内藤大夫名田地六反半畠壱反」とあり、中世は北山辺きたやまべ郡内であったらしい。一色氏の祖公深の子頼行が「勲功之賞」として藤大夫名を拝領したのは、鎌倉幕府の滅亡にかかわるものと考えられる。頼行はこの地を鎌倉の大蔵南おおくらみなみ小路聖天しようてん堂の灯油料として永代寄進をしている。城の台じようのだい城跡は南北二五〇メートル、東西約一五―二〇メートルの台地上の最高所に郭があり、その北にも郭が認められる。一五世紀後半の築城と考えられる。城府じようふには一六世紀後半と思われる城跡がある。当地の土豪石橋氏は天正一八年(一五九〇)主家千葉氏の没落により殿内とのうちに土着した。田畑を多くもつが人手不足で田地が荒れたため、住民の要求により田畑を分け与えたという。

森村
もりむら

[現在地名]豊川市森町

国府こう村の南に続く。「和名抄」所載の宝飯ほい望理もり郷の地。天正一七年(一五八九)一〇月九日の三州宝飯郡府中之郷御縄打水帳(大社神社蔵)には府中ふちゆう郷のうちである。地名に、ひさく・ふかた・志ほち・ちようなか・みこ田・とちか坪などがみえる。年次不詳の田畑附与之百姓順席之事(佐竹健吾氏蔵)

<資料は省略されています>

とある。これは天正年中より慶長年中(一五九六―一六一五)の間に、森村草分百姓が周辺村々より入百姓を集め、田地を付与して役勤めをさせたという由来(森村入百姓由来)に従って、宮座の席順を受持高の多少をもって決めるというものである。

森村
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[現在地名]栄村大字北信ほくしん

千曲川北岸段丘上にある県の最北端の村。東は寺石てらいし羽倉はくら(現新潟県中魚沼郡津南つなん町)に接し、北は関田せきだ山脈天水あまみず(一〇八八メートル)を境とし、現新潟県東頸城ひがしくびき松之山まつのやま町に接する。谷筋道に沿い、羽倉との間の一里塚を国境とする。羽倉で谷筋道から分岐する道は山伏やまぶし越えで天水島あまみずしま(現松之山町)に通じている。東方国境に堂原どうはら組、西方青倉あおくら村境に中条なかじよう組の集落がある。

慶長七年(一六〇二)川中島四郡検地打立之帳(小柳文書)に「九拾九石弐斗九升六合 森村」とあるのが初見。

森村
もりむら

[現在地名]迫町森

迫川左岸にあり、登米郡に属した。対岸は栗原郡北方きたかた佐沼さぬま町・同郡南方みなみかた(現南方町)、東は新井田にいだ(現中田町)に接する。村名について「安永風土記」に「村名に付慥成儀は相知兼候得共往古三浦対馬と申人在所之節四方平地に候内御百姓居屋敷通斗山地に而小高く御座候に付森と唱来候由承伝候」とあり、約六〇〇メートル四方の森に百姓屋敷が集中していた。森林中の集落は東表ひがしおもて西表にしおもてとに分れ、このほか田地内に平柳ひらやなぎ赤沼あかぬま吐出はきだしの三集落がある。

森村
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[現在地名]伊予市森

本郡ほんぐう村の南に続く海沿いの村で平地部の西南端、村の一部は山地にかかる。現伊予市と現伊予郡砥部とべ町の境の障子しようじ(八八四・九メートル)から流れ出した森川は現伊予市の南部山地を開析してここで伊予灘に注ぐ。森の地名はこの辺りが数百万年前に扶桑木が繁茂した大森林であったことによるという。森が城跡は戦国期の熊権兵衛の居城跡といわれる。村の西方には海岸段丘がみられ、古くは段丘から海岸までは葦の生い茂る所であったらしく、あしのもと新開しんかい新田しんでん・下新田などはそれを示している。

森村
もりむら

[現在地名]相生市矢野町森やのちようもり

かみ村の北、矢野川上流域の河谷平地と山地に立地する。地内で同川支流の能下のうげ(奥山川)が合流する。合流点より少し上流の川沿いに磐座いわくら神社がある。同社は盤蔵・岩蔵・石蔵とも記された。嘉禎四年(一二三八)閏二月日の石蔵大明神修理田宛行状案(東寺百合文書)に「当庄鎮守石蔵大明神」とみえる。正安元年(一二九九)一一月五日の矢野庄の例名実検取帳案(同文書)には、岩蔵を冠して正月御神楽田・二月神田・修理田などと記された一町一反余の神田があげられる。

森村
もりむら

[現在地名]下呂町森

小川おがわ村の北西、飛騨川東岸にあり、飛騨街道が通る。北方湯之島ゆのしま村との境は飛騨川支流阿多野あだの谷となっている。慶長一八年(一六一三)の飛騨国郷帳に下呂郷として村名がみえ、高四三九石余。元禄検地反歩帳には上呂じようろ郷で高二八九石余、田一八町余・畑一四町一反余。「飛騨国中案内」によれば下呂郷で免四割七分四厘、家数一〇一、うち寺一・百姓七九・地借り八・門屋一三。天明八年(一七八八)の村明細帳(徳川林政史研究所蔵)によれば高三三七石、家数九八・人数五一六、馬五二。

森村
もりむら

[現在地名]知多市日長ひなが

伊勢湾に接し、東西の丘陵の谷間を日永ひなが川が北から南へと流れ、その周辺に田畑が開け、南の日永神社付近に民家が集中。西の丘陵の真ん中を西浦にしうら街道が南北に走る。北は古見こみ村、東は岡田おかだ村に接する。「寛文覚書」によれば、概高一千六五石余、田五二町三反九畝余・畑二五町九反二畝余、家数一五二、人数九七五。源敬様御黒印写(徳川林政史蔵)では、寛永二〇年(一六四三)に鈴木主殿の給知が二〇四石余あった。

森村
もりむら

[現在地名]交野市森・森南もりみなみ一―三丁目・森北もりきた一―二丁目・私部南きさべみなみ四丁目

てら村の南に位置し、東過半は山地。「河内国小松寺縁起」に引く保延五年(一一三九)の勧進奉加帳および久安元年(一一四五)の近衛天皇綸旨に森村郷がみえる(ただし両文書とも検討を要する)。豊臣秀吉は河内平定後、河内を直轄し一部を家臣の給地にしているが、天正一二年(一五八四)一一月の河内国御給人御蔵入之内より出米目録(中之島図書館蔵)によれば当村のうち一三〇石は長池庄左衛門、一一一石は佐久間きく介の知行となっており、注記に「合弐百四拾一石之内ヨリ三拾六石一斗五升出米」とある。

森村
もりむら

[現在地名]養父町森

三谷みたに村の南に位置する。江戸時代は幕府領(寛永一六年知高帳・宝暦七年但馬国高一紙、「但馬国高附郡訳手控」岡田家文書など)。寛永一六年(一六三九)の知高帳では高一〇五石余。天保郷帳では高一一六石余。弘化三年(一八四六)の村明細帳(森区有文書)によれば田高九五石余・畑高二七石余、総反別は一四町一反余、家数七六・人数三五三、牛一四。延宝六年(一六七八)当村と三谷村の東方に位置する津谷つだに山をめぐって、両村の間で相論が生じている。この相論は同年、カカナベ本谷の川を境に東方は当村分、西方は三谷村分とし、西方のうち論場となった細谷を祐徳ゆうとく寺分とすることなどを取決めて内済となった。

森村
もりむら

[現在地名]菰野町神森かもり

神田こうだ村の南に位置する。三滝みたき川と金渓かんだに川が合流する三角洲にあたり、村の東部は低地の沼沢地が続く。森の地名は綸旨口宣院宣等写(宮内庁書陵部蔵)中にある元応二年(一三二〇)七月一日付某譲状写に、智積ちしやく御厨の「森郷」として現れる。また当村にあった賀保かほ廃寺の鰐口(神森区有)の銘文に「伊勢国三重郡智積御厨内賀保寺鰐口之事 永享二年十一月八日」とあり、当村が智積御厨に属していたことを示している。さらに長禄二年(一四五八)の伊勢国智積御厨年貢帳(京都市醍醐寺蔵)にも森郷の名前がみえる。

森村
もりむら

[現在地名]羽島市正木町森まさきちようもり正木町森新田まさきちようもりしんでん

南及みなみおよび村・光法寺みつほうじ村の西に位置する大浦おおうら輪中内の村。美濃路が通る。慶長郷帳に村名がみえ、高三九〇石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では旗本中川忠勝領。正保郷帳によると田方二五二石余・畑方一四七石余。旗本中川長三郎(三七九石余)・同伝三郎(一九石余)の相給。元禄郷帳では旗本中川領と幕府領の相給。文化一二年(一八一五)の村明細帳では旗本中川領三八六石余・幕府領一三石余。

森村
もりむら

[現在地名]富山市森・蓮町はすまち二丁目・同六丁目・千原崎ちはらざき二丁目・高畠町たかばたけまち一―二丁目・森一―五丁目・森若町もりわかちよう森住町もりずみちよう晴海台はるみだい中田なかだ三丁目・米田町よねだまち三丁目・住友町すみともちよう

蓮町村の北の平地に位置。森林を切開いて村立てしたのが村名の由来と伝え、古くから鷹狩場として知られた。正保郷帳では高六七一石余、田方三五町三反余・畑方九町四反、新田高一一二石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印による草高八八九石、免四ツ四歩(三箇国高物成帳)

森村
もりむら

[現在地名]久留米市みや陣町大杜じんまちおおとみやじん六丁目

筑後川中流右岸の自然堤防上にあり、西は五郎丸ごろうまる村に接する。北辺を宮地みやのじ渡から松崎まつざき宿(現小郡市)方面に通じる筑前街道が通る。延文四年(一三五九)の大保原合戦の直前、少弐頼尚の軍勢が「杜ノ渡」を前衛として筑後川の北岸に陣を張っている(「太平記」巻三三)。杜を恵都里えずりとよむが、杜と森の訓が通じるため「森の渡」の転じたものかという(北筑雑藁)

森村
もりむら

[現在地名]東和町大字森

南を平野ひらの、東を和佐わさ、北東を神浦こうのうらの各村と接し、西側は海に面する。北西海上にうか(現橘町)を望む。

慶長一五年(一六一〇)の検地帳は「森村」と記すが、これにはのちの平野村域が含まれたらしく「地下上申」には「大島郡森平野村」とある。しかし「注進案」では平野村は分離し、森村のみで記される。

慶長一五年の検地帳によれば、田面積一二三反余で高一九七石七斗余、畠一一町五反余で石高四八石四斗余、塩浜方一八石余であった。「注進案」では総田畠数五二町五反余、総石高五三六石二斗余とあり、分離した平野村分を引いても田畠面積・石高ともに大幅な増加を示している。うち九割が蔵入で、残りが給領であった。

森村
もりむら

[現在地名]玖珠町森

現町域のほぼ中央に位置する。東の大岩扇おおがんせん山、西の角埋つのむれ山の間を南流する森川は玖珠川に合流。北部は八久保やくぼ山麓。慶長六年(一六〇一)森藩の陣屋が置かれた。参勤交代には大岩扇山と小岩扇こがんせん山の間の八丁はつちよう越を通り府内・日田往還に入った。中世は帆足ほあし郷の内としてみえる。慶長六年来島康親が森に入封、陣屋を置き、玖珠・日田・速見三郡の一万四千石余を領知した。

森村
もりむら

[現在地名]勝浦町生名いくな

中角なかつの村の西、勝浦川右岸に位置する。地内に福良出羽守を主将とする森城があり、天正年間(一五七三―九二)に落城したと伝える(城跡記)。慶長二年(一五九七)の分限帳に「勝浦森村」とあり、村内二〇石が鶴林かくりん寺領となっている。慶長年間のものと推定される国絵図に「をり」とみえるのは当地か。正保国絵図では「森村」として高一七三石余。

森村
もりむら

[現在地名]貝塚市森

名越なごせ村の南にある南郡の村で、木島きのしま谷五ヵ村の一。近木こぎ川右岸の台地から木島谷東側の丘陵部にかけた地を村域とし、村内を縦貫する水間みずま街道沿いに集落を形成。戦国末期のものと推定される名衆中感状(阿部文書)に村名がみえる。この感状は三松みつまつと森が争って戦闘となったとき、阿部正久が勲功をたてたことに対し、三松の名主衆中が出したものとみられる。

森村
もりむら

[現在地名]大津市田上森町たなかみもりちよう

羽栗はぐり村にほぼ並行する長い村域で、東は甲賀郡田代たしろ(現信楽町)、北西はえだ村。大戸だいど川北岸の山麓には白鳳期の窯跡が残る森遺跡がある。中世はどう・羽栗とともに一郷を形成していたという。天正一一年(一五八三)八月の浅野長吉知行目録(浅野家文書)に「もり村」六五六石余とある。江戸期を通じて膳所藩領。

森村
もりむら

[現在地名]久居市森町

庄田しようだ村の西に隣接する村で、長野ながの川を挟んで右岸が森、左岸が加村かむらの二地区に大別される。森地区の西から南に榊原さかきばら川が流れる。七栗ななくり郷のなかの一村として室町時代を通じて木造氏の支配下にあった(木造軍記)。一方、森城主であったと言伝える堀家の文書(堀義春氏蔵)の寛保元年(一七四一)由緒書によると、五代前の堀宮内が北畠氏より森村に一二〇町歩の地を与えられてこの地に居住することになったという。その孫金右衛門については天正一二年(一五八四)戸木へき籠城戦で木造氏に属して奮戦した武勇譚を「勢陽雑記」が記しており、森垣内もりがいと集落の背後にある丘陵地には、その城跡が残されている。

森村
もりむら

[現在地名]灘区船寺通ふなでらどおり三―四丁目・都通みやこどおり一―二丁目・灘南通なだみなみどおり四丁目

稗田ひえだ村の南東、西郷にしごう川と都賀とが川に挟まれた沖積地に位置する。村内を山陽道が通る。中世は都賀庄内にあり、文安四年(一四四七)頃の夏麦山手注文(天城文書)に森とみえ、烏帽子銭一〇〇文を負担している。文明二年(一四七〇)九月一二日の都賀庄公文名地帳(同文書)には作人として森の孫二郎・大夫二郎大夫・道仏・孫三郎がみえる。天文一五年(一五四六)九月吉日の公文名納帳(同文書)では森村は山手銭一〇〇文を、天正一九年(一五九一)一二月一日の若林久大夫分山手指出帳(同文書)では二〇〇文を負担している。

森村
もりむら

[現在地名]東区もり宮中央みやちゆうおう一―二丁目、東成ひがしなり中道なかみち一丁目、城東区森之宮もりのみや一丁目ほか

大坂城玉造口定番与力同心屋敷の東側、森之宮(現鵲森宮)一帯を屋敷地および耕地とした村であるが、村域は不明な点が多い。「天文日記」天文五年(一五三六)六月三日条に森三ヶ庄がみえる。同書によると同庄から麦を祐光ゆうこう(跡地は現東区で、現在大淀区円勝寺が寺跡を所有)に納めている。

森村
もりむら

[現在地名]舞鶴市字森・森町もりまち・森本町ほんまち丸山まるやま町・丸山口町まるやまぐちまち・丸山中町なかまち・丸山西町にしまち

はま村の南に位置、与保呂よほろ川の沖積平野の縁辺にあたり、清冽な涌水に恵まれる。当村より堂奥どうのおく村・小倉おぐら村を経て松尾まつのお寺へ至る西国巡礼街道が通る。

村域内に白鳥しらとり古墳(円墳)があり、旧語集によれば、小字藁谷わらだにに一色氏の部将高橋因幡守の居城森城跡がある。

慶長検地郷村帳に高七四一・九五石「森村」とみえ、土目録でも同高、内訳は田方六六五石余、畑方七六石余、運上の一つに渋柿三斗が記される。

森村
もりむら

[現在地名]仁淀村森

長者ちようじや川下流、仁淀川との合流点付近に位置し、「土佐州郡志」に「東限大平御嶽峠、西限高瀬田之瀬、南限川渡仏堂峯、北限久喜村柚木谷小谷、東西五十町余南北五十町余、其土黒」とある。中世、別符山べふやま五名のうち西森にしもり名に含まれ、天正一七年(一五八九)別符山西森名地検帳に名内小村として村名がみえる。「古土居床」「弓場」「鍛冶屋」などの小字があり、「新トイ」には片岡氏の一門と思われる人物が居住、付近に若干ながら屋敷地の集中が認められる。

森村
もりむら

[現在地名]東灘区森南町もりみなみまち一―三丁目・森北町もりきたまち一―七丁目・本庄町ほんじようちよう一―二丁目・本山町森もとやまちようもり

中野なかの村の東、六甲ろつこう山地南麓緩斜面の山麓寄りに位置する。南端部を山陽道が通る。領主の変遷は郡家ぐんげ村と同じ。慶長国絵図に村名がみえ、高三一三石余。正保郷帳でも同高。寛文四年(一六六四)の高三一五石余(寛文九年頃の「尼崎藩青山氏領地調」加藤家文書)。享保二〇年(一七三五)摂河泉石高調では高三二九石余。天保郷帳でも同高。前掲領地調によると家数四九・人数三〇七。天明八年(一七八八)の巡見使通行用留帳(岡本家文書)では家数七五・人数三四五、牛三三。

森村
もりむら

[現在地名]津幡町山森やまもり

倶利伽羅くりから峠を西に下った山腹に位置。東は倶利伽羅村で北陸街道に沿う。地名は当村を開いた百姓次右衛門の出身地で、南の小柳こやなぎ谷との間にある「大森小森」に由来すると伝える。次右衛門は小柳谷の一軒家に居住して家来を有し、佐々成政との合戦時、前田利家の道案内などを勤めたことから、往還道筋の御用を命じられたという(嘉永三年「森村次右衛門由緒等覚書」奥村文書)

森村
もりむら

[現在地名]藤岡市森

立石たついし村の西、南は中栗須なかくりす村、西はなか村に接する。永禄二年(一五五九)の「小田原衆所領役帳」に垪和又太郎が上州で給された地に「五拾貫文 森之内中村郷」があり、同六年に武田信玄との申合せによって「森郷内小林右馬允分」は安保氏に与えられている(同年五月一〇日「北条氏康・氏政連署知行宛行状」安保文書)

寛文郷帳では幕府領、田方一八四石八斗余・畑方五二四石八斗余、元禄郷帳では前橋藩領。後期の御改革組合村高帳では幕府領と旗本水上領の二給、家数五八。中山道新町しんまち宿(現多野郡新町)の助郷高七一一石を勤め(享保九年「新町宿助郷帳」田口文書)、文化一二年(一八一五)の尾張藩主帰国の際には御用物御継立場に人足三四人を出している(「新町宿人馬寄高并継立書上帳」内田文書)

森村
もりむら

[現在地名]上田市大字芳田よしだ

殿城でんじよう山南西麓にある村、集落の中ほどを、北より南へ吉田堰よしだせぎが通じており、その下を旧吉田堰(童女おうな堰)が流れている。東は山林を隔てて東田沢ひがしたざわ村(現小県郡東部町大字かのう)、西は漆戸うるしど村、南は小井田こいだ村、北は下郷しもごう村と境をなす。

元和末年仙石氏が統治するようになった頃から、吉田村より分村したと伝える(芳田村誌)。近世は初め真田領、元和八年(一六二二)仙石氏に代わり、寛文九年(一六六九)に、矢沢村を中心に森村も含む八ヵ村二千石を、仙石政勝に分知し、矢沢旗本領となった(「仙石政勝宛二千石分知目録」改撰仙石家譜)

森村
もりむら

[現在地名]丹波町字森

京街道から西に広がる塩田しおた谷の入口に位置する。東は須知しゆうち村、南はたに村・西階にしかい(高岡村)、西は谷村、北は印内いんない村。高屋たかや川の支流曾根そね川が村内を北東流し、村の南と北には山を負う。谷村、谷奥の安井村とともに「上三ケ村」とよばれたこともある(→谷村

旧高旧領取調帳によると泉涌せんにゆう(現京都市東山区)領四〇石、龍安りようあん(現京都市右京区)領二〇石、上賀茂かみがも(現京都市北区)領九石余、川勝備後知行五五石余と四者の分有となっている。

森村
もりむら

[現在地名]泉大津市森町一―二丁目・末広すえひろ町一―二丁目・森・二田ふつた町二丁目・曾根そね町一―三丁目・池園いけぞの町・千原ちはら町二丁目・助松団地すけまつだんち東助松ひがしすけまつ町三丁目

千原村の西に隣接。慶長一〇年(一六〇五)和泉国絵図では千原村と合せて四一七石余。寛永末年頃の状況を記したと推定される和泉国郷村帳によると森村は二六八石余で幕府領(奈良奉行支配)。元禄郷帳をはじめ江戸時代中期以降の郷村帳には、領主は同じであるにもかかわらず二つの森村が記される。元文年中改和泉国四郡郷村高帳によると、一は二九二石余、一は一〇一石余である。

森村
もりむら

[現在地名]湯沢市森

横手盆地の南部に位置し、村内を湯沢町から沼館ぬまだて(現平鹿ひらか郡雄物川町)に通ずる街道が通る。南は湯沢町・倉内くらうち村、西は柳田やなぎだ村・金屋かなや村、北は八幡やわた村・二井田にいだ村、東は岩崎いわさき村・杉沢すぎさわ村に接する。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に三四三石と記される。宝永二年(一七〇五)の雄勝郡村々御黒印高牒(秋田県庁蔵)では、高は本田三三六石九斗九升三合、新田三一〇石六斗六升七合、計六四七石六斗六升(当高六七六石六斗六合)。享保八年(一七二三)の雄勝郡郡村本村支村御高共調帳(秋田県庁蔵)では当高は変わらず、家数五九軒。

森村
もりむら

[現在地名]岐阜市森・森西もりにし森東もりひがし

中屋なかや村の南西に位置し、西は石原いしはら村、南東は武儀むぎ川沿いの世保よやす村。慶長郷帳に村名がみえ、高一九五石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では堀直寄(越後長岡藩)領。正保郷帳では幕府領で、田一四九石余・畑四五石余。以後幕府領として推移したとみられる。文化七年(一八一〇)の村明細帳によれば田一一町五反余・畑屋敷三町四反余、家数一七・人数五二、馬三。山県用水の流末にあったため日照りが続けば旱損となることが多かった。

森村
もりむら

[現在地名]津和野町森村

後田うしろだ村の南、津和野城下町の東裏、青野あおの山西麓の津和野川右岸段丘に立地。津和野城下五ヵ村の一。慶長七年(一六〇二)の検地高は二六七石余であったが(明治四年万手鑑)、寛永一三年(一六三六)村内耕地を津和野藩の家臣屋敷に割渡した(「新屋敷渡帳」津和野町史)。この結果、同一四年の検地帳(津和野町郷土館蔵)では田高一〇七石余・九町余、畑高五八石余・一八町八反余、新開畑高四石余・五町八反余。名請人は一六一、うち屋敷登録人一九・町人四一・職人八・家中侍一・同下人九、寺院一一(僧職含む)・小百姓(入作含)六六。

森村
つじもりむら

[現在地名]君津市辻森

二入ふたいり村の東、小糸こいと川上流右岸に位置する。東は上総丘陵の稜線を越え望陀もうだ小坂こさか村へ通じる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高五四石。寛永一八年(一六四一)から市宿いちじゆく村と同じく旗本曾根領。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数二二。字善示山ぜんじやま吾妻あづま神社がある。

森村
もりむら

[現在地名]岩出町森

紀ノ川の支流根来ねごろ川中流域にある。東は今中いまなか村、南東は川尻かわしり村。「続風土記」は「荒田神社の森あるを以て村名とす」と記す。中世は弘田ひろた庄に含まれたと思われる。慶長検地高目録によれば村高三二八石余、小物成四升一合。山崎組に属し、正徳元年(一七一一)の山崎組定免所指出帳(増田家蔵)によると田一八町一反余で高三一九石余、畑七反余で高九石余、家数四九で内訳は庄屋・肝煎各一、本役三八、半役六、無役三、人数二九五(男一五〇・女一四五)、牛三〇。

森村
もりむら

[現在地名]新旭町あさひ

下吉武しもよしたけ村の南にあり、南は山形やまがた村。応永二九年(一四二二)の木津庄引田帳(饗庭文書)に森郷とある。天正二年(一五七四)六月の定林坊田畠帳(同文書)に「もり」とみえる。同一一年八月の杉原家次知行目録(浅野家文書)に「山かけ もり たい」として高五〇二石余とある。元和五年(一六一九)以来大溝藩領で、寛永石高帳に高三四三石余とある。慶安高辻帳では田方三一二石余・畑方三〇石余。

森村
もりむら

[現在地名]大津町森

陣内じんない村の東、吹田ふけだ村の西に位置し、その北部を瀬田下せたした井手が流れる。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳によると、名請人二九人(うち屋敷持五)、田はなく、畠(屋敷を含む)五一町三反六畝余、分米三一三石九斗余とある。寛永一〇年(一六三三)の人畜改帳では大津組に属し、森村と森村出分に分れている。森村は二分冊(一五〇石と一五五石六斗余)にされているが、併せた戸数は一〇・家数五〇、人数五六(うち小庄屋二・名子七)、牛馬二七。森村出分は戸数七・家数三三、人数三二(うち小庄屋一・名子三)、牛馬二三、高三一五石余(うち居百姓分一七九石余)である。その後合志郡大津手永に属し、宝暦一三年(一七六三)の下ケ名寄帳によると、上森・下森・松古閑などに居屋敷があり、給知五〇町四反余・高六二〇石六斗余、新地四町三反余・諸開一七町五反余。

森村
もりむら

[現在地名]亀岡市しの町森・ひがしつつじヶ丘都台おかみやこだい・東つつじヶ丘曙台あけぼのだい

北は広田ひろた、東はしの、西は浄法寺じようぼうじの各村、南は山地。

中世には渡辺氏が勢力を張っていた。当村にある式内社村山むらやま神社の再興に渡辺六郎頼方が尽力し、国恩こくおん(現廃寺)は花山院家と関係があり、渡辺六郎が花山院家より国恩寺の雑掌に任ぜられて、この辺りの寺領を管理していることが「桑下漫録」所引の国恩寺史料によってうかがえる。

森村
もりむら

[現在地名]三朝町森

本泉もといずみ村の東に位置し、加茂かも川が集落北側を西流する。拝領高一四八石余。和田氏の給地(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」によれば高一七二石余、竈数一三。かも大明神(現賀茂神社)・明神宮が祀られ、獅子岩・烏帽子岩などの大岩伝説のほか、枝村大江・なか村の存在を記している。中村は小字中村なかむら向フ中村むこふなかむらとして残る。宝暦三年(一七五三)頃の河村郡村々明細帳(近藤家文書)では朱高一五八石余、高一七三石余、うち畑高七石余。

森村
もりむら

[現在地名]山東町森

溝黒みぞくろ村の南、与布土ようど川の上流域に位置する。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名が記される。宝暦七年(一七五七)の但馬国高一紙でも高二六八石余。文政一三年(一八三〇)の作付反別等書上(日下家文書)では高五五石余が地不足無反別とされ、田一九五石余・反別一四町一反余、畑一七石余・反別二町余で、畑方に麻・茶などを植付けていた。百姓持牛六。庄屋・年寄・百姓代が署名している。八幡神社が鎮座。与布土・三保みほ越田おつたの集落とともに祀る。天文年間(一五三二―五五)与布土の衣笠きぬがさ城主松岡盛祐が創建したと伝え、慶長一〇年(一六〇五)改築、寛文七年(一六六七)修築したという。

森村
もりむら

[現在地名]幡豆町東幡豆ひがしはず

じや山の西麓から海岸にかけての平坦地に発達した村落。もり村とも記す。近世は松平対馬守領。嘉永六年(一八五三)の丑郷帳(牧野健吉氏蔵)では米のほか塩三石二斗四升四合と銭八〇〇文が課せられている。

海岸部のわり遺跡から弥生式土器が出土した。また「三河志」に記す若宮八幡は、海岸近くにある八幡社のこと。

森村
もりむら

[現在地名]豊後高田市森

知恩寺ちおんじ村の南西、応利おうり山北東麓のかつら川流域に位置する。江戸時代の領主の変遷は上来縄かみくなわ村に同じ。小倉藩元和人畜改帳に村名がみえ、高八〇九石余、家数一三〇(うち百姓四二・山守一、隠居・名子・下人・庭屋・牛屋・裏や八七)・人数一八〇(うち百姓四二、名子・下人七)、牛三一・馬一。元和八年(一六二二)の走り百姓帳(松井家文書)によると、同七年当村の又三郎ら三人が速見郡鶴見つるみ(現別府市)へ逃散している。

森村
もりむら

[現在地名]長井市森

最上川を挟んで成田なりた村の対岸東方にある。かつては成田村と一村であったが、近世後期に同村より分村した。森穴もりあな堰と通称される諏訪すわ堰は浅立あさだち(現西置賜郡白鷹町)など最上川右岸の諸村を灌漑したが、元和二年(一六一六)には取水口が当地安松あんしように設けられている(取水口はのち宮村地内に移転)。宝暦七年(一七五七)五月の大洪水は置賜おきたま地方に大きな損害をもたらしたが、森観音堂の壁書には「人馬・家屋敷・田畠ミナ亡ス」など被害の甚大であったことが記される。また寛政年中(一七八九―一八〇一)安松では銀山が稼働していた(樹畜建議)

森村
もりむら

明治三五年(一九〇二)から大正一〇年(一九二一)までの村。明治三五年尾白内おしろない宿野辺しゆくのべ・森・鷲ノ木わしのき蛯谷えびや石倉いしくらの六村が合併して成立。旧村名を継承する六大字を編成。同三六年六月、北海道鉄道によって本郷ほんごう(現大野町渡島大野駅)から森駅までの鉄道が敷設され函館―森間が開通した(北海道鉄道百年史)。さらに同四一年六月森―室蘭間の定期航路も再開され(森町史)、当村は陸海の交通の拠点となった。明治四〇年四月一級町村制を施行、戸数一千五三五・人口九千五四〇。大正三年当時の水産加工製品はコナゴ煮干一〇一石・鰯搾粕四〇石・コナゴ搾粕二六石・鯡搾粕一四石・鰯油一一石であり、同六年の漁業従事者一千六五人、漁船は五〇石以上四三、五〇石未満八二二、魚網は刺網三千八六九・建網一二四・引網二三。

森村
もりむら

[現在地名]福野町森

小矢部おやべ川と大井おおい川の中間に位置し、北は三ッ屋みつや村・布袋ほてい村。元和五年(一六一九)の家高新帳では役家数六。正保郷帳では高二二八石余、田方一四町七反余・畑方五反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印(森区有文書)では草高二四四石、免五ツ三歩、小物成は山役二〇匁。天保一〇年(一八三九)まで高の変化はない(「高物成帳」菊池家文書)。所属組は広安ひろやす村と同じ。延宝四年(一六七六)には役家数八軒一歩、無家役一軒一歩(「礪波郡村肝煎給米図り帳」川合家文書)

森村
もりむら

[現在地名]明石市大久保町西島おおくぼちようにしじま

赤根あかね川の河口の西側に位置し、南は西嶋にしじま村・東嶋村。西浦辺組に所属。慶長国絵図に「もり村」とみえる。正保郷帳では田高五六三石余・畑高六三石余、旱損所。天保郷帳では高六四四石余。村の規模は東西約四五間・南北平均八〇間、往還の長さ約五〇間。城下西本にしほん町の高札場より約二里三町。郷蔵一・池一二・小藪三、真言宗持教院の阿弥陀堂があった(明石記)。持教院は現高野山真言宗密厳山如法によほう寺のことといわれ、寺伝によれば大治年中(一一二六―三一)に西海和泉守有利が建立したもので、のち中尾なかお村の住吉四社大明神の別当を兼ねたという。

森村
もりむら

[現在地名]尼崎市南塚口町みなみつかぐちちよう一―六丁目・東塚口町ひがしつかぐちちよう一―二丁目・塚口本町つかぐちほんまち一丁目

上坂部かみさかべ村の西に位置し、正保郷帳の同村の注記に記される「新家村」にあたる。貞享二年(一六八五)頃同村から分立したといわれる。享保二〇年(一七三五)の摂河泉石高調では、旗本船越領として村名がみえ、高四六四石余。郷帳類では上坂部村に含まれて明治に至る。

森村
もりむら

[現在地名]更埴市森

南方の坂城さかき村の境界に鏡台山、西の小島おじま村の間に有明ありあけ山があり、東は大峰山、北は倉科くらしな村に接する山に囲まれた村。伝承では「和名抄」の倉科くらしな郷に属したという。

村名の初見は、慶長七年(一六〇二)の川中島四郡検地打立之帳で「森村 高千弐百弐拾五石弐斗参升五合」とある。慶長九年の信州四郡草山年貢帳には「一、五石 札山 森村」とある。杏の栽培は安永年間(一七七二―八一)松代藩が森村・倉科村・生萱いきがや村等に植樹させたのに始まる(埴科郡志)

森村
もりむら

[現在地名]香住町森

香住村の南、矢田やだ川の下流右岸に位置する。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」には「もり村」とみえ、当地には「もり殿」・中村新左衛門殿などのほか「御代官」も居を構えていた。近世の領主の変遷は香住村に同じ。慶長一八年(一六一三)の小出吉英所領目録(金井文書)では高二九一石余。出石封内明細帳によると拝領高は前掲所領目録の村高に同じで、改出高は二合余、これらの内訳は屋敷七石余・麻畑四石余・田方二一〇石余・畑方七〇石余、ほかに古新発高五石余・新発高二一石余、家数四二・人数三一六。

森村
もりむら

[現在地名]安心院町森

鳥越とりごえ村の南東、深見ふかみ川の中流域にある。北東は野山のやま村。「宇佐郡地頭伝記」によると、当地には深見氏一族香浄寺氏が住していたという。同氏は大内氏に属していたが、弘治二年(一五五六)田原紹忍によって滅ぼされたという。地内伊賀屋敷いがやしきは香浄寺氏の屋敷地といい、また香浄こうじよう寺とよぶ仏堂もある。近世の領主の変遷は妻垣つまがけ村に同じ。小倉藩元和人畜改帳に村名がみえ、高三三〇石、人数六三、百姓一一(うち庄屋一)・名子四・牢人一、牛七・馬一。

森村
もりむら

[現在地名]和歌山市森小手穂もりおてぼ

名草なくさ郡に属し、和田わだ川の北、福飯ふくいいヶ峯の東、大日だいにち山の南にある。南北に細長い村で、西は西にし村、東は小手穂おてぼり村。中世は岡崎おかざき庄のうちに含まれた。慶長検地高目録では岡崎村に含まれ、同村の注記のうちに村名がみえる。のち分村し、天保郷帳は森・小手穂村と並記して八六九石余。

森村
もりむら

[現在地名]睦沢町森

上之郷かみのごう村の北に位置し、埴生はぶ川支流の長楽寺ちようらくじ川が流れる。埴生郡に属した。文禄二年(一五九三)三月九日の埴生郡森村検地帳写(睦沢町史)がある。同三年の上総国村高帳に村名がみえ、高一二二石。正保国絵図では高一一二石で、幕末まで変わらない。

森村
もりむら

[現在地名]高取町大字森

紀州街道(巨勢谷―五条―和歌山)土佐とさ街道(御所―高取)の交差点に立地する街村集落。吉野・壺阪つぼさか初瀬はせ高野こうや・伊勢に通ずる分岐点でもあった。紀州への起点で紀辻きのつじ木辻きのつじ(大和志)ともいう。「山陵考」には「森村の名は人あまねく言はずして、紀の辻という字ぞ、世に名高くなりぬ」とみえる。

森村
もりむら

[現在地名]豊田市森町

矢作川沿いにあり、久澄橋のすぐ東に位置する。町の北側を加茂かも川が流れ、森町で大きく湾曲して矢作川に近づき、御立みたち町の南で合流する。文久二年(一八六二)の村絵図によると、集落は平地に散在し、加茂川沿いに、川守宮・神明・白山・八王子の各社が並んでいる。ほかに山神と千日堂もあるが、すべて平地に置かれている。村の中央部と東側の山すそに、別所池・蘿苅池・川ラ池の三池がある。先土器時代から縄文時代にかけての曾根そね遺跡があり、石皿や石棒が出土している。

森村
もりむら

[現在地名]和気町衣笠きぬがさ

金剛こんごう川左岸の平野にある。南は小中山こなかやま村・入田にゆうた村、北は尺所しやくそ村。天正一七年(一五八九)六月二七日の安養寺正税帳(安養寺文書)に「もり」の助五郎の名がある。慶長一八年(一六一三)和気郡御勘定帳に本庄内として村名がみえ、物成九六石余、夫米五石余。寛永備前国絵図では高一九〇石余。「備陽記」によると田畑一二町八反余、家数二六・人数一三一。

森村
もりむら

[現在地名]倉吉市森

中野なかの村の南西、北谷きただに川左岸に位置する。拝領高は二六七石余、本免は五ツ六分。神戸氏の給地があった(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」では高二九〇石余、竈数二〇余、村内に「長山大明神」(現山長神社)を祀る。幕末の六郡郷村生高竈付では生高二七七石余、竈数二二。藪役銀三五匁が課されていた(藩史)。文政年中(一八一八―三〇)村内段丘上の水利の悪い地に大河内おおかち村の森堰から新井手を引き一町五反ほどの田地を開いた(北谷の歩み)

森村
もりむら

[現在地名]甚目寺町森

南は古道ふるみち(現美和町)に接する。「徇行記」によれば、概高一千六四八石余のうち一千五〇九石余は藩士二六人の給知。田は六五町七畝余、畑は二七町七反一畝余。「寛文覚書」に戸数九〇、人数五四六とある。「徇行記」に「此村ハ清須街道南ノ方ニ農屋建ナラヒ一村立ノ所也、高ニ準シテハ戸口少クシテ佃力不足シ、中ノ庄村・増田村・古道村・小路村ヘ田畝ヲ掟ルナリ、小百姓ハカリニテ貧村ナリ、御前帳百石ニ付五町六反三歩ニツケリ、土ハマツチ也(中略)田面ノ字ヲムカ江・乙井・東深坪・西深坪・極楽寺・西浦・田室・西堀田・一町地・タコシロナト唱ヘリ、東西ヘ長キ田面ナリ」とあり、田面の字に条里制の名残を伝える。

森村
もりむら

[現在地名]大分市森

乙津おとづ川左岸の沖積平野に位置し、北は森町もりまち村。江戸時代を通じて臼杵藩領。慶長一一年(一六〇六)の惣御高頭御帳に村名がみえ高八〇二石余、森村組。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によると田高四一〇石余・畑高三九二石余。正保郷帳では森町村に含まれる。文政六年(一八二三)の所属組は森村組(臼杵史談)。小高札場が設けられていた。一八世紀中頃の庄屋金兵衛は庄屋地高二石(「雑録」臼杵藩政史料)

森村
もりむら

[現在地名]巣南町森

かみ村の北に位置し、さい川西岸の平坦地に立地。慶長郷帳に村名がみえ、高六〇八石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では堀直寄(越後長岡藩)領。同年幕府領となり、寛永一二年(一六三五)から大垣藩領。正保郷帳では田三三一石余・畑二七六石余。明治五年(一八七二)の森村明細帳・森入方明細帳によれば延享三年(一七四六)の内検で入方を分離し、森村四三二石余・田反別二五町五反余、森入方二一七石余・田反別一二町八反余、畑は合計で反別八町二反余。

森村
もりむら

[現在地名]名立町森

名立川中流が大きく東に蛇行する内側に集落がある。氾濫原と山麓台地を利用して耕地も広く集落も大きい。北は折居おりい村、南は桂谷かつらだに村に接する。正保国絵図に高八六石余とある。天和三年郷帳では高一〇七石四斗余である。北寄りの台地上にある曹洞宗善興ぜんこう寺は、寛永一八年(一六四一)名立小泊なだちこどまり村の宗龍そうりゆう寺末として、同寺四世仁安義守を開山とし、上杉謙信家臣の安達左衛門尉が創立した。

森村
もりむら

[現在地名]大町市大字たいら

現大町市の北部、木崎きざき湖の南岸、現木崎集落の北に接して位置し、遠く西南方からの鹿島かしま川扇状地の扇端部が村の南を限るため、村居の西部には、古くは湿田地帯があった。森の名は、天正一二年(一五八四)小笠原貞慶の書状(「小笠原貞慶書状案」御書集)に、「森之要害」の表現でみえるのを初見とする。森村はこの森城を中心にして発達した集落である。

文禄年間(一五九二―九六)に成立したとみられる筑摩安曇両郡郷村御朱印御高附には、「弐拾弐石三斗五升五合 森村」と記されている。

森村
もりむら

[現在地名]豊岡市森

船町ふなまち村の北、宮島みやじま村の東に位置する。江戸時代の領主の変遷は駄坂ださか村に同じ。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名がみえ、高一九六石余。宝暦一〇年(一七六〇)の村明細帳(足立家文書)でも同高、小物成は山役米一石四斗余・茶役米一升余・刈畑役米五升・桑役銀九五匁余、家数一一・人数五九、鎮守は宮島村の厳島いつくしま大明神(現厳島神社)

森村
もりむら

[現在地名]東条町森

天神谷てんじんだに村の南、東条川左岸に位置する。慶長国絵図に村名がみえ、正保郷帳によると田方五一一石余・畠方二六石余、幕府領。幕末には遠江浜松藩(のち上総鶴舞藩)(旧高旧領取調帳など)。天保郷帳によると高五五三石余。天保七年(一八三六)の家数五六・人数二五〇、牛一九、木挽一・大工一・紺屋一・醤油屋一・古手屋一・牛博労三(「村明細帳」森区有文書)

森村
もりむら

[現在地名]鹿島市大字森字森

現鹿島市の北西部にあって、西は現藤津郡塩田町に接する。正保絵図に村名がみえる。

村内の五の宮ごのみや神社の小独立丘に、竜造寺隆信が神埼郡蒲田江かまたえ城主の犬塚弾正忠鎮家に築城を命じ、天正四年(一五七六)二月の有馬攻めに備えさせたといい、この城を森岳もりたけ城という。この城に拠った犬塚鎮家は、有馬勢に相対して隆信の藤津攻略に功を立て、一二〇町余を賞与された。

森村
もりむら

[現在地名]東条町森尾もりお

総持院そうじいんの北、東条川中流の右岸にある。正保郷帳では田方六二石余・畠方五石余、幕府領。寛延二年(一七四九)から幕末まで長井ながい村と同じく姫路藩領。天保郷帳によると高七一石余。浄土真宗本願寺派西念さいねん寺があり、正徳四年(一七一四)に木仏・寺号を免許された(末寺帳)

森村
もりむら

[現在地名]長浜市森町

相撲すまい村の北に位置。西は細江ほそえ(現東浅井郡びわ町)、北は曾根そね(現同上)。寛永石高帳によれば高四六八石余、彦根藩領。寛文四年(一六六四)の彦根領分高帳(間塚文書)によると定免五ツ五分。

森村
もりむら

[現在地名]加賀市森町

二子塚ふたごづか村の南、動橋いぶりはし川中流左岸の河岸段丘上にある。正保郷帳によると村高二九九石余、田方一二町九反余・畑方六町五反余、物成高一一二石余。「江沼志稿」では高一五六石余、小物成に油臼役一〇匁のほか野役・茶役があり、家数一七・人数四七、馬三。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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排外主義

外国人や外国の思想・文物・生活様式などを嫌ってしりぞけようとする考え方や立場。[類語]排他的・閉鎖的・人種主義・レイシズム・自己中・排斥・不寛容・村八分・擯斥ひんせき・疎外・爪弾き・指弾・排撃・仲間外...

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