日本歴史地名大系 「森村」の解説
森村
もりむら
近世から明治三五年(一九〇二)までの村。箱館六箇場所の一つ茅部場所に含まれていたが、寛政一二年(一八〇〇)に「村並」となり(休明光記附録)、天保郷帳の「従松前東在」に
シャクシャインの戦に関連して「津軽一統志」に「もり 小川有」とみえるのが早い。「和漢三才図会」に「モリ」とある。享保十二年所附では「一 志か辺(中略)も里 打浦 とち崎 一 加屋べ 乙しつ辺」などが記される。寛政年間になると「海辺づたひに朝川わたりて、聞つる杜ちふ村になり」(蝦夷迺天布利)、「モリ、大野村ヨリ此処マテ山越ヘ九里、此所山遠ク木アリ、内浦山右ニ附、当処ヨリ野道少シ行、夫ヨリ砂浜ユキ、川アリ、幅六七間、川越ヘ砂浜ユク」(蝦夷巡覧筆記)と記される。文化年間(一八〇四―一八)になるとさらに「此川より森と云所あり、一里計、同所には人家十五六、夷家七八軒、(中略)森村より石川原まて半里計」(「毛夷東環記」同三年四月条)、「大白ナイを行過き森村に至る、廿戸斗、入口山手に蝦夷屋弐三軒有、村端小川有、亦柳原と云ふ所夷家十二三軒有、人家も入込なり」(「西蝦夷地旅行日記」同六年七月一九日条)、「家数二十軒程、夷家八軒程、此所海岸鯡場なり」(同年高麗「蝦夷日記」)などと記される。松浦武四郎は森村として「人家三十軒計、夷人六七軒入接。(中略)小商人弐三軒、農作人、旅籠屋、漁者のミ也」と記す。土産は新鱈、鰤、鯡、数子、昆布、帆立貝、海鼠、椎茸、ヒラメ、カスベ、油コ、ホツケ、鱒など。馬がある(「蝦夷日誌」一編)。嘉永六年(一八五三)の調査では鷲ノ木持森の家数三二・人数一八一、馬四二、産物は煎海鼠・鯡・鰯粕・滋鮭。
森村
もりむら
村高は、元和五年(一六一九)の備後国知行帳では五一四石余であるが、正保三年(一六四六)の地詰帳(「国郡志下調書出帳」所収)では畝数九二町八反余で高六三八石余、さらに寛文一二年(一六七二)の新開地詰で六石余増高、宝永三年(一七〇六)の地では畝数七五町三反余で六四四石余となる(同書出帳所収)。
森村
もりむら
河北潟の北方、丘陵の西先端に独立した標高二三メートルの小丘を囲み集落が立地。北・西・南の三方は宇ノ気川・
森村
もりむら
森村
もりむら
- 愛知県:豊川市
- 森村
とある。これは天正年中より慶長年中(一五九六―一六一五)の間に、森村草分百姓が周辺村々より入百姓を集め、田地を付与して役勤めをさせたという由来(森村入百姓由来)に従って、宮座の席順を受持高の多少をもって決めるというものである。
森村
もりむら
森村
もりむら
森村
もりむら
- 愛媛県:伊予市
- 森村
森村
もりむら
- 兵庫県:相生市
- 森村
森村
もりむら
森村
もりむら
- 愛知県:知多市
- 森村
伊勢湾に接し、東西の丘陵の谷間を
森村
もりむら
- 大阪府:交野市
- 森村
森村
もりむら
森村
もりむら
森村
もりむら
森村
もりむら
森村
もりむら
森村
もりむら
南を
慶長一五年(一六一〇)の検地帳は「森村」と記すが、これにはのちの平野村域が含まれたらしく「地下上申」には「大島郡森平野村」とある。しかし「注進案」では平野村は分離し、森村のみで記される。
慶長一五年の検地帳によれば、田面積一二三反余で高一九七石七斗余、畠一一町五反余で石高四八石四斗余、塩浜方一八石余であった。「注進案」では総田畠数五二町五反余、総石高五三六石二斗余とあり、分離した平野村分を引いても田畠面積・石高ともに大幅な増加を示している。うち九割が蔵入で、残りが給領であった。
森村
もりむら
森村
もりむら
森村
もりむら
- 大阪府:貝塚市
- 森村
森村
もりむら
森村
もりむら
- 三重県:久居市
- 森村
森村
もりむら
森村
もりむら
森村
もりむら
森村
もりむら
森村
もりむら
森村
もりむら
森村
もりむら
- 群馬県:藤岡市
- 森村
寛文郷帳では幕府領、田方一八四石八斗余・畑方五二四石八斗余、元禄郷帳では前橋藩領。後期の御改革組合村高帳では幕府領と旗本水上領の二給、家数五八。中山道
森村
もりむら
森村
もりむら
森村
もりむら
- 大阪府:泉大津市
- 森村
千原村の西に隣接。慶長一〇年(一六〇五)和泉国絵図では千原村と合せて四一七石余。寛永末年頃の状況を記したと推定される和泉国郷村帳によると森村は二六八石余で幕府領(奈良奉行支配)。元禄郷帳をはじめ江戸時代中期以降の郷村帳には、領主は同じであるにもかかわらず二つの森村が記される。元文年中改和泉国四郡郷村高帳によると、一は二九二石余、一は一〇一石余である。
森村
もりむら
- 秋田県:湯沢市
- 森村
横手盆地の南部に位置し、村内を湯沢町から
正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に三四三石と記される。宝永二年(一七〇五)の雄勝郡村々御黒印高牒(秋田県庁蔵)では、高は本田三三六石九斗九升三合、新田三一〇石六斗六升七合、計六四七石六斗六升(当高六七六石六斗六合)。享保八年(一七二三)の雄勝郡郡村本村支村御高共調帳(秋田県庁蔵)では当高は変わらず、家数五九軒。
森村
もりむら
森村
もりむら
森村
つじもりむら
森村
もりむら
森村
もりむら
森村
もりむら
森村
もりむら
- 京都府:亀岡市
- 森村
北は
中世には渡辺氏が勢力を張っていた。当村にある式内社
森村
もりむら
森村
もりむら
森村
もりむら
森村
もりむら
森村
もりむら
- 山形県:長井市
- 森村
最上川を挟んで
森村
もりむら
明治三五年(一九〇二)から大正一〇年(一九二一)までの村。明治三五年
森村
もりむら
森村
もりむら
- 兵庫県:明石市
- 森村
森村
もりむら
森村
もりむら
- 長野県:更埴市
- 森村
南方の
村名の初見は、慶長七年(一六〇二)の川中島四郡検地打立之帳で「森村 高千弐百弐拾五石弐斗参升五合」とある。慶長九年の信州四郡草山年貢帳には「一、五石 札山 森村」とある。杏の栽培は安永年間(一七七二―八一)松代藩が森村・倉科村・
森村
もりむら
森村
もりむら
森村
もりむら
森村
もりむら
森村
もりむら
森村
もりむら
森村
もりむら
森村
もりむら
- 鳥取県:倉吉市
- 森村
森村
もりむら
南は
森村
もりむら
森村
もりむら
森村
もりむら
森村
もりむら
- 長野県:大町市
- 森村
現大町市の北部、
文禄年間(一五九二―九六)に成立したとみられる筑摩安曇両郡郷村御朱印御高附には、「弐拾弐石三斗五升五合 森村」と記されている。
森村
もりむら
- 兵庫県:豊岡市
- 森村
森村
もりむら
森村
もりむら
森村
もりむら
森村
もりむら
- 滋賀県:長浜市
- 森村
森村
もりむら
- 石川県:加賀市
- 森村
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報