日本歴史地名大系 「山中鹿之介墓」の解説 山中鹿之介墓やまなかしかのすけのはか 岡山県:高梁市阿部村山中鹿之介墓[現在地名]高梁市落合町阿部市場(いちば)にある。山中鹿之介(鹿之助・鹿介)は尼子氏の重臣で名は幸盛。天文一四年(一五四五)出雲富田月山(とだがつさん)城(現島根県能義郡広瀬町)の城下で生れた。尼子義久・勝久に仕えて武勲をたて、英雄豪傑とうたわれたが、主家は大内氏、のち毛利氏との中国争覇戦に敗れて衰退、再興をかけた天正六年(一五七八)の播州上月(こうづき)城(現兵庫県佐用郡上月町)の戦いにも敗れ、勝久は自害した。鹿之介は毛利氏に降伏し再起を期したが、毛利輝元の本陣松山(まつやま)城へ護送される途中、同年七月一〇日、帰順の意を疑われて阿井(あい)の渡で討取られた。山県長茂覚書(石見吉川家文書)に「山中鹿助毛利殿御被官ニと望ニ付、輝元様御座所備中松山へ被送着、天野元明ニ被仰付、あいの渡にて被討果」とあり、討果した福間氏の合戦覚(萩藩閥閲録)はそのときの様子を詳しく書残している(→阿部村)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by