尼子氏(読み)あまごうじ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「尼子氏」の意味・わかりやすい解説

尼子氏
あまごうじ

室町、戦国時代に山陰地方で勢力を振るった、近江源氏(おうみげんじ)佐々木(ささき)氏の一族。「あまこうじ」ともいう。佐々木高氏(たかうじ)(導誉(どうよ))の孫にあたる高久(たかひさ)が、近江国犬上(いぬかみ)郡尼子郷(滋賀県犬上郡甲良(こうら)町)を領し、尼子を名のったことに始まる。次男持久(もちひさ)は、明徳(めいとく)の乱(1391)後、京極(きょうごく)氏の守護代として出雲(いずも)に下った。その子清定(きよさだ)は、応仁(おうにん)の乱(1467~1477)に際し富田月山(とだがっさん)城(島根県安来(やすぎ)市)に拠(よ)って出雲(いずも)を平定し、所領拡大、島根半島東端の美保関(みほのせき)銭徴収権獲得など、経済的基盤も固めた。さらにその子経久(つねひさ)は荘園(しょうえん)侵略、段銭(たんせん)押領を重ね、ついには1486年(文明18)守護京極政高(まさたか)を京都に追放して戦国大名への道を歩み始め、最盛期には石見(いわみ)、出雲から播磨(はりま)に至る11か国の国人を従えたという。しかし、権力編成に難があったため、1541年(天文10)経久の孫晴久(はるひさ)が安芸(あき)の毛利(もうり)氏征討に失敗し、逆に毛利氏が1557年(弘治3)の周防(すおう)、長門(ながと)征服以降山陰に進出するや、国人は次々と離反した。そして1566年(永禄9)富田城が陥落し、晴久の子義久(よしひさ)が毛利氏に降(くだ)るに及び、尼子氏の山陰支配の歴史はその幕を閉じたのである。

[池 享]


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百科事典マイペディア 「尼子氏」の意味・わかりやすい解説

尼子氏【あまこうじ】

近江(おうみ)源氏佐々木氏の流れ。〈あまご〉ともいう。出雲(いずも),隠岐(おき)の守護京極高秀の三男高久が,近江尼子郷を領して尼子を称した。高久の子持久が出雲守護代となってから代々出雲富田(とだ)城(月山(がっさん)城)を本拠として山陰を制し,大内・毛利氏と戦ったが,義久の代の1566年毛利氏に敗れ,支族勝久らの再興の企ても失敗し1578年滅亡。→山中鹿介
→関連項目陰徳太平記清水寺口和[町]上月[町]広瀬[町]

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改訂新版 世界大百科事典 「尼子氏」の意味・わかりやすい解説

尼子氏 (あまこうじ)

近江源氏佐々木氏の一族で,室町・戦国時代の大名。出雲,隠岐の守護京極高秀の三男高久が近江犬上郡尼子郷に住し尼子氏を称した。その子持久が出雲守護代となってから代々同国能義郡富田(とだ)城(月山城)を拠点とした。次の清定は応仁・文明の乱に際し国内の平定に努めて興隆の基礎を固め,その子経久は守護京極氏に代わり出雲を中心に近隣諸国の国人を従え,安芸,石見で大内氏と中国地方の覇を競った。その孫晴久は大内氏に従った安芸の毛利氏を攻めて敗れたが,大内・毛利勢の反撃を退けその勢力を保った。その子義久は大内氏に代わった毛利氏に圧倒され,1566年(永禄9)富田落城により降伏した。その後,支族勝久が遺臣山中鹿之介幸盛らに擁せられて出雲に挙兵したが敗れ,織田信長を頼り羽柴秀吉の先陣として播磨上月城に拠ったが,78年(天正6)毛利氏に攻囲され勝久は自害し,尼子氏は滅亡した。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「尼子氏」の解説

尼子氏
あまこし

「あまごし」とも。室町・戦国期の大名。宇多源氏佐々木氏流。出雲・隠岐両国守護,京極高秀の次男高久が近江国甲良(かわら)荘尼子郷(現,滋賀県甲良(こうら)町)を領して尼子氏を称したのに始まる。高久の子持久は出雲国守護代となり,富田(とだ)(月山(がっさん))城(現,島根県安来市)を本拠とした。持久の子清定は応仁・文明の乱に乗じて,国人の掌握に努める。その子経久のとき,いったんは富田城を追放されたが,1486年(文明18)奪還,山陰地方から山陽の一部までを支配下におさめた。孫の晴久も勢力を受け継いだが,大内氏や毛利氏と対立。その子義久は1566年(永禄9)に毛利氏に敗れ,降伏。その後,支族勝久が遺臣の山中鹿介(しかのすけ)らに擁立されて再興をはかったが,78年(天正6)滅亡。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「尼子氏」の意味・わかりやすい解説

尼子氏
あまこうじ

宇多源氏。佐々木氏の一族。出雲,隠岐の守護京極高秀の子高久が近江国犬上郡尼子荘を領して尼子氏を称した。その子持久が出雲守護代となり,代々月山 (がっさん) 城主。持久の子清定,さらに経久のとき,勢力伸張し山陰を支配した。永禄9 (1566) 年,義久が毛利氏に敗れたのち,支族勝久が織田信長と結んで再興策を企て,天正5 (77) 年秀吉の播磨上月城攻略後,ここに拠ったが,翌年,毛利軍の攻囲を受けて落城,自殺して滅亡。

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旺文社日本史事典 三訂版 「尼子氏」の解説

尼子氏
あまこし

出雲(島根県)の戦国大名
京極氏の子孫。経久のとき,出雲などの山陰諸国を領有。大内氏と争い,晴久のとき衰え,1566年毛利氏に攻略された。のち分家勝久は山中鹿之助と再興をはかったが失敗,滅亡した。

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世界大百科事典(旧版)内の尼子氏の言及

【出雲国】より

…このため同年守護代職を剝奪され富田城を追われたが,2年後にはこれを奪回し,たちまちのうちに山陰の雄と称される戦国大名へと成長していった。出雲の国衆が強力な国人一揆によって対尼子連合戦線を組む動きを示さなかったこと,また尼子氏の側でも長年にわたる守護佐々木氏の領国支配の伝統の上に立って,もっぱら〈本領安堵・新恩給与〉の形で国人・土豪層の編成につとめたため,比較的スムーズに国人層以下の掌握が可能であったこと,これらが尼子氏の急速な成長を可能にしたものと考えられる。しかしこのことは同時に尼子氏の急速な没落を招く原因ともなった。…

【隠岐国】より

…約40年に及ぶ守護山名氏のあとを受けて,明徳の乱(1391)後京極高詮が隠岐国守護に補任され,弟秀重は隠岐氏を称して隠岐一円に勢力を拡大した。隠岐氏は東郷に宮田(くんだ)城(のち下西の甲ノ尾城)を築いてここに拠ったといわれ,戦国期には雲州尼子氏と被官関係を結んで隠岐国支配の維持・貫徹につとめた。毛利氏の支援を得てこれに抵抗した在地勢力に対し,1532年(天文1)隠岐氏は尼子氏の援助のもとにいったんはその平定に成功したが,尼子氏の没落とともに71年(元亀2)隠岐国もまた毛利氏の支配下におかれた。…

【月山城】より

…島根県能義郡広瀬町の月山に築かれた中世の山城。富田(とだ)城ともいい,戦国大名尼子氏の居城であった。平安時代末に悪七兵衛景清が築いた城という伝承があるが,南北朝時代には出雲国守護山名氏のもとで勢力のあった佐々木富田氏の居城であったと考えられる。…

【備後国】より

… 1507年(永正4)大内義興の上洛に,備後の国人らは多く従った。同じく上洛していた尼子(あまこ)経久が帰国して勢力を糾合しはじめると,これになびく備後国人も現れ,芸備国境付近を中心に尼子氏と大内氏の交戦が繰り返され,23年(大永3)尼子軍の安芸鏡山(かがみやま)城攻略前後に,備後の大内方は尼子方に走った。大内氏は翌年厳島神主家を下し,27年南下した経久を三谷郡和智郷細沢山に破って湯浅,和智などを寝返らせた。…

※「尼子氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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