山路西東村
さんろさいとうむら
[現在地名]春野町豊岡
気田川とその支流杉川の合流地点にある気田村金川集落から尾根沿いに北に向かって上っていった山の斜面に点在する。正保郷帳に記載はなく、承応三年(一六五四)に検地を行って成立したといわれ、承応三年の高二〇石、寛文一三年(一六七三)の高八石余(元禄一三年「国絵図御用につき山路西東村証文」柴田家文書)。元禄郷帳など以後ほとんど変化はない。旧高旧領取調帳では幕府領八石余・八幡除地一斗余。慶応三年(一八六七)には村の賄金を用立てるため組頭が立木を質物として平木村・篠原村の名主から借金をするなど、村財政の困窮が推測されるが、同年それまで当村の名主を兼帯していた気田十五七百村の名主が兼帯をやめることによって独立性を回復する動きもあった(慶応三年「山路西東村等賄金借用証文」「山路西東村・十五七百村地論等一件内済証文」渡辺家文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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