周智郡(読み)しゆうちぐん

日本歴史地名大系 「周智郡」の解説

周智郡
しゆうちぐん

面積:三八六・〇一平方キロ
もり町・春野はるの

静岡県西部のほぼ東寄り中央にある。東は榛原はいばら本川根ほんかわね町・中川根なかかわね町・川根町、北は磐田郡水窪みさくぼ町、西は同郡佐久間さくま町・龍山たつやま村、天竜市・磐田郡豊岡とよおか村、南は掛川市・袋井市。北端には赤石山脈南部蕎麦粒そばつぶ(一六二七・一メートル)高塚たかつか(一六二一・一メートル)京丸きようまる(一四六九・一メートル)、西端には竜頭りゆうとう(一三五一・六メートル)・秋葉山(八八六メートル)がそびえ、春野町域西部を気田けた川が支流を合せながら南流したのち西へ向きを転じ天竜市へ入る。南部森町北部に発した太田おおた川が同町中央部を南西流する。春野町のほぼ中央部すぎ川と気田川沿いに国道三六二号が横断し、森町南部を天竜浜名湖鉄道が東西に通る。

〔古代〕

和名抄」名博本には郡名に「スチ」の訓を付し、「延喜式」神名帳には「周知郡」と記される。古代の郡域は現森町南部付近にあたり、天竜川東岸、太田川上流を中心に広がる。太田川流域には古墳が集中する。郡名としての初見は「続日本後紀」承和七年(八四〇)六月二四日条の「周智郡无位小国天神」を従五位下としたという記事である。郡家の所在地は不明。「和名抄」によれば郡内には小山おやま山田やまた依智えち大田おおた田椀たまるの五郷が存在した。「延喜式」神名帳記載の神社は「芽原ハキハラノ川内神社」「小国ヲクニノ神社」「馬主ムマヌシノ神社」の三座で、いずれも小社。承和七年に無位小国おくに神社に従五位下が授けられ、貞観二年(八六〇)には小国神および(芽)原河内神が正五位下から従四位下(「三代実録」貞観二年正月二七日条)に、同一六年にも両神そろって従四位下から従四位上とされている(同書同年二月二三日条)。平安末期には太田川右岸に京都蓮華王院領飯田いいだ庄が成立した。

〔中世〕

中世前期の郡域は分明ではないので、中世後期および江戸時代初期の史資料から現在の袋井市東端、森町・春野町・水窪町辺りを想定して記述する。

文暦二年(一二三五)以前に小国社は遠江国一宮とされた。同社社僧であった森(現森町)の蓮華寺の僧禅勝房(正嘉二年没)は深く法然の教えに帰依した。その頃の同寺の檀那は鎌倉御家人と思われる中原氏である(年月日未詳「某書状」金沢文庫文書など)。建治元年(一二七五)郡南部の御家人として平宇太郎・東西谷五郎の名がみえる(「六条八幡造宮支配注文」国立歴史民俗博物館蔵)。前者は平宇ひらう(現袋井市)、後者は村松油山むらまつゆさん(現同上)の在名で文明年間(一四六九―八七)には東西谷と呼称されていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報