日本歴史地名大系 「島末庄」の解説
島末庄
しまずえのしよう
立荘の時期は不詳であるが、荘名の初見は藤原経房の日記「吉記」の承安四年(一一七四)二月二六日条に「奏最勝光院御庄々事、(中略)嶋末庄事、仰云、弁済国庫官物可注進申之由、可仰泰経朝臣」とある。また同年八月一〇日にも記され、島末庄が最勝光院の荘園であったことが知られる。安元二年(一一七六)建春門院の死去に際して最勝光院領は後白河法皇に譲られており、島末庄もその一部であったと思われる。その後の伝領関係は明確ではないが、寛喜三年(一二三一)八月二八日の三宝院門跡前権僧正成賢譲状案(醍醐寺文書)によれば、島末庄は成賢から道教法眼に譲られた荘園の一つとなっている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報