東和町(読み)とうわちよう

日本歴史地名大系 「東和町」の解説

東和町
とうわちよう

面積:一五七・九三平方キロ

郡の北東部に位置し、東は遠野市・上閉伊かみへい宮守みやもり村、西は北上市・花巻市、南は江刺市、北は稗貫ひえぬき大迫おおはさま町・石鳥谷いしどりや町に接する。北上高地の西辺の山地・丘陵と、中央を西流するさるいし川と、その支流域の平地からなる。北部を西流する北上川支流のきぬ川と添市そいち川の流域にも平地が開けている。東境には砥森ともり(六七〇・一メートル)をはじめとする高地が連なるが、ほかは標高二〇〇―五〇〇メートルの低山地である。猿ヶ石川は右岸で稚部おさなべ川、左岸で白土しろつち川・毒沢どくさわ川・小通こがよう川などの支流が合流する。猿ヶ石川に沿ってJR釜石線が横断し、土沢つちざわ晴山はるやまの二駅がある。並行して国道二八三号が走る。昭和二九年(一九五四)完成した田瀬たせダムにより丘陵地への灌漑が可能になり水田が増大した。


東和町
とうわちよう

面積:一四〇・二七平方キロ

登米郡北東端にあり、北は蚕飼こかい(四一八・一メートル)の峰で岩手県東磐井ひがしいわい藤沢ふじさわ町、東は北上山地の峰で本吉もとよし郡本吉町・志津川しづがわ町、南は登米とよま町、西は中田なかだ町。町域西端を北上川が南流し、中央を北東から南西に二股ふたまた川が流れ、北上川に合流する。合流地点では北上川は大きく曲流している。町域の大部分が丘陵性の地形のため、平坦地はきわめて少なく、二股川と北上川の流域にわずかに存在し、耕地面積は全町の一〇パーセントに満たない。米の自給自足ができるようになったのは、昭和三〇年(一九五五)以降である。


東和町
とうわちよう

面積:三九・四三平方キロ

屋代やしろ島の東部を占め、細長く東西に延びる。白木しらき(三七四・三メートル)佐連され(三三九メートル)大見おおみ(三三六・七メートル)などの山が点在し、町域のほとんどが山地および丘陵地で、平地はきわめて少ない。三方は海に面し、多くの漁港がある。また海上にはなさけ島・かた島・沖家室おきかむろ島など大小の島が点在する。町内西部の白木山を中心とした一帯は瀬戸内海国立公園の一部。


東和町
とうわまち

面積:七二・二二平方キロ

安達郡の北東部、阿武隈高地の開析された丘陵地帯に立地。阿武隈川の小支流、木幡こはた川・若宮わかみや川・安達太田あだちおおた川などが西流している。小河川沿いの狭小な低地に水田が樹枝状に分布、丘陵斜面はおもに桑園で、県内でも養蚕の盛んな地域である。町の中央付近を国道三四九号が、また西端近くを主要地方道飯野いいの三春みはる栃本とちもと線が、それぞれ南北に縦断しており、一般地方道山木屋やまきや―二本松線が東西に走っている。道路は河川沿いにあるため、東西方向の道路は屈曲が多く見通しが悪い。

現町域の村は天正一八年(一五九〇)奥羽仕置後、会津を領した蒲生氏、次いで上杉氏、蒲生氏(再封)、加藤氏の支配下に置かれたが、寛永二〇年(一六四三)二本松藩丹羽氏領となり、幕末に至った。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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