屋代庄(読み)やしろのしよう

日本歴史地名大系 「屋代庄」の解説

屋代庄
やしろのしよう

米沢盆地の東辺、最上川およびその支流羽黒川より東の平野・山間部に広がる摂関家領(のち天皇家領)庄園。北は北条ほうじよう(現南陽市)、西は成島なるしま庄と接する。現在の高畠町の大部分(糠野目・上平柳など最上川以西は成島庄に入る)と米沢市東部(明治二二年成立の万世村・上郷村)、さらに県境を越えた宮城県刈田かつたしち宿しゆく町に属する山間部の一部(湯原)も庄域に入る。古代の置賜屋代郷(和名抄)が庄園化したものであろう。

左大臣藤原頼長の日記「台記」仁平三年(一一五三)九月一四日条に「屋代庄」とみえ、久安四年(一一四八)に父忠実から頼長へ大曾禰おおそね(現山形市)遊佐ゆざ(現飽海郡遊佐町)・屋代と陸奥高鞍たかくら(現宮城県栗原郡)本良もとよし(現同県本吉郡)の五庄が譲与されているので、成立は一二世紀前半より以前となる。当庄の年貢本数(定額)は布一〇〇段・漆一斗・馬二匹であったが、頼長は庄園の管理にあたっていた陸奥平泉の藤原基衡に布と漆を二倍に、馬を三匹に増やすよう求めた。基衡は抵抗して布一五〇段・漆一斗五升・馬三匹で妥結している。


屋代庄
やしろのしよう

古代の屋代郷の地を荘域とすると思われる荘園で、藤原北家(九条流)の荘園の一。

立荘の時期は不明であるが、安部成清が開発、嘉祥二年(八四九)に藤原良房に寄進し、成清は屋代庄惣公文職に任ぜられたと伝える(嘉禄二年六月「周防屋代荘領家定文案」櫛辺文書)。しかし「櫛辺家譜録」は安部成清が屋代庄の領主職になったのは嘉承二年(一一〇七)二月と記している。荘名の初見は治承四年(一一八〇)五月の皇嘉門院惣処分状(九条家文書)で、「さいそうこんこう院」のうちに「すわうやし路」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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