江戸後期の儒学者。文化(ぶんか)6年4月17日、江戸愛宕山(あたごやま)下に生まれる。名は世弘、字(あざな)は毅侯(きこう)、通称甲蔵、宕陰また九里香園と号す。16歳のとき昌平黌(しょうへいこう)入学、松崎慊堂(まつざきこうどう)に師事する。安井息軒(やすいそくけん)は同門である。慊堂の推挙で浜松侯水野忠邦(みずのただくに)に仕え、忠邦が老中となるや、顧問として大いに補佐するところがあった。のち幕府の儒官となり、列祖の政績を明らかにする修史のことを願って許されたが、病のため中絶した。慶応(けいおう)3年8月28日私邸に没す。墓は東京・谷中(やなか)天王寺。宕陰の学は、宋学(そうがく)を墨守せず、あわせて漢唐の訓詁(くんこ)考証を重んじ、注疏(ちゅうそ)の精確を期する学風を示した。また文章に優れ、「宕陰は我が欧陽氏なり」と称揚された。儒者にして槍技(そうぎ)をよくし、兵法の奥義をも窮めた。幕末には上書して海防の必要を述べ、『籌海私議(ちゅうかいしぎ)』(1846)『阿芙蓉彙聞(あふよういぶん)』(1847成立)などを著す。著書はそのほか『丙丁炯戒録(へいていけいかいろく)』『隔靴(かっか)論』(1859)『昭代記』(1879)『揚光録』『宕陰存稿』(1870)『宕陰賸稿(ようこう)』など多数に上る。
[渡部正一 2016年5月19日]
江戸後期の儒者。江戸の人。名は世弘,字は毅侯,通称は甲蔵。宕陰は号。昌平黌に学び,のち松崎慊堂(こうどう)に師事し浜松藩主水野忠邦の儒官となる。忠邦が幕府の老中となって天保の改革を推進すると,顧問として忠邦に助言した。忠邦の失脚後も浜松藩中に重きをなし,禄200石に至った。折からアヘン戦争の風聞が伝わり,ペリーが米艦を率いて浦賀に来航するなど,欧米諸国による侵略を恐れて日本の朝野では議論が沸いたが,宕陰は《阿芙蓉彙聞(あふよういぶん)》や《籌海私議(ちゆうかいしぎ)》を著して海防の必要を説いた。のち14代将軍徳川家茂のときに抜擢されて幕府の儒官となった。詩文集に《宕陰存稿》がある。弟の簣山(きざん),簣山の子青山はともに漢学者として著名。
執筆者:日野 竜夫
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(沼田哲)
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