塩谷宕陰(読み)シオノヤトウイン

デジタル大辞泉 「塩谷宕陰」の意味・読み・例文・類語

しおのや‐とういん〔しほのやタウイン〕【塩谷宕陰】

[1809~1867]江戸末期の儒学者。江戸の人。名は世弘。松崎慊堂まつざきこうどう師事浜松藩水野忠邦に仕え、のち幕府儒官。「阿芙蓉彙聞」「籌海ちゅうかい私議」を著して海防の必要を述べた。

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精選版 日本国語大辞典 「塩谷宕陰」の意味・読み・例文・類語

しおのや‐とういん【塩谷宕陰】

  1. 江戸後期の儒者。名は世弘、字(あざな)は毅侯。江戸に生まれ、昌平黌(しょうへいこう)に学ぶ。師松崎慊堂推挙により水野忠邦に仕えて天保の改革に参画、のち、幕府の儒官となり、修史に携わる。海防論にも一家言あった。著「阿芙蓉彙聞」「籌海私議」「宕陰存稿」「大統歌」。文化六~慶応三年(一八〇九‐六七

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「塩谷宕陰」の意味・わかりやすい解説

塩谷宕陰
しおのやとういん
(1809―1867)

江戸後期の儒学者。文化(ぶんか)6年4月17日、江戸愛宕山(あたごやま)下に生まれる。名は世弘、字(あざな)は毅侯(きこう)、通称甲蔵、宕陰また九里香園と号す。16歳のとき昌平黌(しょうへいこう)入学、松崎慊堂(まつざきこうどう)に師事する。安井息軒(やすいそくけん)は同門である。慊堂の推挙で浜松侯水野忠邦(みずのただくに)に仕え、忠邦が老中となるや、顧問として大いに補佐するところがあった。のち幕府の儒官となり、列祖の政績を明らかにする修史のことを願って許されたが、病のため中絶した。慶応(けいおう)3年8月28日私邸に没す。墓は東京・谷中(やなか)天王寺。宕陰の学は、宋学(そうがく)を墨守せず、あわせて漢唐の訓詁(くんこ)考証を重んじ、注疏(ちゅうそ)の精確を期する学風を示した。また文章に優れ、「宕陰は我が欧陽氏なり」と称揚された。儒者にして槍技(そうぎ)をよくし、兵法の奥義をも窮めた。幕末には上書して海防の必要を述べ、『籌海私議(ちゅうかいしぎ)』(1846)『阿芙蓉彙聞(あふよういぶん)』(1847成立)などを著す。著書はそのほか『丙丁炯戒録(へいていけいかいろく)』『隔靴(かっか)論』(1859)『昭代記』(1879)『揚光録』『宕陰存稿』(1870)『宕陰賸稿(ようこう)』など多数に上る。

[渡部正一 2016年5月19日]

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改訂新版 世界大百科事典 「塩谷宕陰」の意味・わかりやすい解説

塩谷宕陰 (しおのやとういん)
生没年:1809-67(文化6-慶応3)

江戸後期の儒者。江戸の人。名は世弘,字は毅侯,通称は甲蔵。宕陰は号。昌平黌に学び,のち松崎慊堂(こうどう)に師事し浜松藩主水野忠邦の儒官となる。忠邦が幕府の老中となって天保の改革を推進すると,顧問として忠邦に助言した。忠邦の失脚後も浜松藩中に重きをなし,禄200石に至った。折からアヘン戦争の風聞が伝わり,ペリーが米艦を率いて浦賀に来航するなど,欧米諸国による侵略を恐れて日本の朝野では議論が沸いたが,宕陰は《阿芙蓉彙聞(あふよういぶん)》や《籌海私議(ちゆうかいしぎ)》を著して海防の必要を説いた。のち14代将軍徳川家茂のときに抜擢されて幕府の儒官となった。詩文集に《宕陰存稿》がある。弟の簣山(きざん),簣山の子青山はともに漢学者として著名。
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朝日日本歴史人物事典 「塩谷宕陰」の解説

塩谷宕陰

没年:慶応3.8.28(1867.9.25)
生年:文化6.4.17(1809.5.30)
江戸後期の儒学者。名は世弘,字は毅侯,通称は甲蔵,宕陰は号。父桃蹊は医者として浜松藩(静岡県)藩主水野忠邦に仕えた。江戸愛宕山下に生まれ,文政7(1824)年昌平黌に入門,同学の安井息軒は終生の畏友であった。また11年松崎慊堂に入門。12年,翌天保1(1830)年と関西に遊び頼山陽と親しく交わった。2年父の没後,儒者として登用された。藩主水野忠邦が老中として天保改革を進めるに当たってその顧問となった。忠邦の退隠後は世子の輔導に当たる。弘化年間(1844~48)には海防問題に強い関心を持ち,『籌海私議』を著し,また清国の阿片戦争を聞き強い危機感から『阿芙蓉彙聞』を輯し,これらは広く迎えられた。ペリー来航に際し「防禦策」などを草し建言した。徳川斉昭は藤田東湖を宕陰のもとに派し諮問している。文久1(1861)年将軍徳川家茂に拝謁,2年昌平黌の儒官となった。幕府の歴史編纂に従事中病に罹り没す。谷中天王寺に葬る。<参考文献>塩谷時敏『宕陰先生年譜』

(沼田哲)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「塩谷宕陰」の意味・わかりやすい解説

塩谷宕陰
しおのやとういん

[生]文化6(1809).4.17. 江戸
[没]慶応3(1867).8.28. 江戸
江戸時代末期の朱子学派の儒学者。名は世弘,通称は甲蔵,字は毅侯,号は九里香園。 16歳で昌平黌 (しょうへいこう) に入り,松崎慊堂 (こうどう) に学んだ。水野忠邦に仕え,次いで江戸幕府の儒官となった。実用の学を重んじ,時事を論じた。著者『宕陰存稿』 (13巻) ,『阿芙蓉彙聞 (あふよういぶん) 』『隔靴 (かくか) 論』『鞭駘 (べんたい) 録』。なお,弟の箕山,その子青山,その孫温も漢文学者である。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「塩谷宕陰」の解説

塩谷宕陰 しおのや-とういん

1809-1867 江戸時代後期の儒者。
文化6年4月17日生まれ。塩谷簣山(きざん)の兄。昌平黌(しょうへいこう)にはいり,また松崎慊堂(こうどう)にまなぶ。遠江(とおとうみ)(静岡県)浜松藩主水野忠邦(ただくに)につかえ,忠邦の老中就任後はその補佐にあたり,のち幕府の儒官。ペリー来航に際し,海防の策を論じた。慶応3年8月28日死去。59歳。江戸出身。名は世弘。字(あざな)は毅侯。通称は甲蔵。別号に九里香園。著作に「籌海(ちゅうかい)私議」など。

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367日誕生日大事典 「塩谷宕陰」の解説

塩谷宕陰 (しおのやとういん)

生年月日:1809年4月17日
江戸時代末期の儒学者
1867年没

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