大分県北東部、東国東(ひがしくにさき)郡にあった旧町名(武蔵町(まち))。現在は国東市の南東部にあたる地域。旧武蔵町は1898年(明治31)町制施行。1954年(昭和29)中武蔵村、旭日(あさひ)村の一部と合併。2006年(平成18)国見(くにみ)、国東、安岐(あき)の3町と合併して市制施行、国東市となった。町名は古代の郷(ごう)名による。国東半島海岸を巡る国道213号が通じ、南隣りの安岐町地区にかけての海岸に大分空港があり、東京、名古屋、大阪などとの空路がある。開析火山、国東半島の東部放射谷の一つ、武蔵川の谷底平野や河岸段丘に米麦作、放射山稜(さんりょう)の山麓(さんろく)緩斜面や山稜末端に続く洪積台地にミカン栽培、上流部にシイタケ栽培が行われる。谷口集落の古市(ふるいち)が中心。白砂青松の砂浜をはじめ、美しい自然に恵まれ、自然休養村の指定を受けている。照恩寺(しょうおんじ)の国東塔は国指定重要文化財。
[兼子俊一]
『『武蔵町史』(1962・武蔵町)』
旧日本海軍が保有した巨大戦艦。大和(やまと)型2艦の2番艦で、1942年(昭和17)8月、三菱(みつびし)重工業長崎造船所で完成した。公試排水量6万9100トン、速力27ノット、乗組員約2500人。主砲に46センチ三連装3基を備え、2万メートルの砲戦で46センチ砲弾に耐えうる舷側(げんそく)防衛力を有した。就役後、第一艦隊第一戦隊に編入され、大和と交替で連合艦隊旗艦の任務についた。戦死した山本五十六(いそろく)司令長官の遺骨を日本に運んだのは武蔵である。戦時中その巨砲の威力を発揮する機会はなく、44年10月24日、米軍のフィリピン攻略に対応した捷号(しょうごう)作戦に参加中、比島沖海戦において米軍機の攻撃にあい、魚雷20本以上、爆弾17発以上を受けシブヤン海に沈んだ。
[前田哲男]
『渡辺清著『戦艦武蔵の最期』(1982・朝日新聞社)』▽『吉村昭著『戦艦武蔵』(新潮文庫)』
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
日本海軍の超戦艦。大和の姉妹艦。従来の軍縮条約型の戦艦(備砲40cm)を圧倒する備砲46cm9門の超戦艦で,1942年(昭和17)8月5日三菱重工業長崎造船所で竣工。43年から44年初頭にかけて連合艦隊旗艦となり,マリアナ沖海戦に参加したあと,44年10月24日レイテ沖海戦においてシブヤン海で米空母機の攻撃をうけ撃沈された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…福岡県中部,筑紫野市武蔵(むさし)にある温泉。もと武蔵温泉,古くは〈次田(すいた)の湯〉とよばれ,《万葉集》にも詠まれた歴史の古い温泉である。…
…日清・日露の海戦で初めてこの艦砲の威力が実証され,イギリスは12インチ砲を主砲とする新鋭戦艦ドレッドノートを建造し大艦巨砲時代の幕を開いた。ロンドン軍縮会議で艦砲は口径14インチ以下と定められたが,期限切れ後に日本は世界最大の46cm砲を装備した戦艦大和,武蔵を建造した。この砲の最大射距離は46kmで弾丸1発の重量は1.5tであった。…
…日本造船業の代名詞的存在で,現在も三菱重工業の主力造船所として,世界有数の進水実績を誇る。造船技術の粋を集めた巨大戦艦〈武蔵〉を建造(1942完成)したのも,ここ(三菱重工業長崎造船所)であった。その起源は1857年(安政4),江戸幕府が長崎鎔鉄所を建設したことに始まる。…
…同型艦〈武蔵〉とともに,旧日本海軍が建造した世界最大の戦艦。第2次世界大戦前に対米英数的劣勢を質的優位で対抗するために,当時の日本海軍が造艦技術の粋を結集して建造を推進した。…
※「武蔵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新