川名村(読み)かわなむら

日本歴史地名大系 「川名村」の解説

川名村
かわなむら

[現在地名]引佐町川名

三岳みたけ(四六六・八メートル)北東きり(四二三メートル)の南東の谷間都田みやこだ川の支流川名川沿岸に位置する。西は伊平いだいら村。河名とも記される。戦国期には井伊いい郷に含まれていた。文安四年(一四四七)閏二月一六日、藤原行次が「河名之薬師堂」に鰐口を奉納した(「鰐口銘」福満寺蔵)。なお当地の福満ふくまん寺では応永三三年(一四二六)一一月一五日に本尊薬師如来坐像が造立されている。その坐像銘(同寺蔵)にみえる「大檀那藤原直貞」は渋川しぶかわ村に住し、井伊谷いいのや本拠とする井伊氏の庶流であるが、この時期は井伊氏を代表する勢力であったとみられる。字西岡にしおかにある六所神社の社蔵棟札銘によると、文明一一年(一四七九)三月一六日に源直広(渋川系井伊氏であろう)が「河名村六所大神宮」の社殿再興、永正一七年(一五二〇)三月一二日・天文一八年(一五四九)一月二八日にも社殿の再建・造立がなされているが、永正一七年・天文一八年の棟札銘には「井伊郷河名村」とある。


川名村
かわなむら

[現在地名]館山市西川名にしかわな

伊戸いと村の北西に位置し、南は海に臨む。河名とも記した。古代安房郡河曲かわわ(和名抄)を当地に比定する説がある。地内の真言宗智山派持明じみよう院の境内には室町時代の五輪塔(完形)が残る。文明一二年(一四八〇)の印信(小網寺文書)に「安房国河名村持明院道場授両部灌頂畢」とみえる。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録では高一五〇石余(うち田八八石余)。同一五年の里見家分限帳によると廿人衆の頭波多野庄左衛門の給知。


川名村
かわなむら

[現在地名]藤沢市川名・川名一―二丁目・片瀬山かたせやま一丁目

柏尾かしお川がさかい川に合流する地点の左岸に位置し、江の島道が通る。鎌倉郡に属し、西は片瀬かたせ村・高座こうざ鵠沼くぐいぬま村、北は弥勒寺みろくじ村に接する。小田原衆所領役帳には大谷彦次郎「四拾八貫四百三拾弐文 東郡川奈」とある。字殿屋敷とのやしき付近に同氏の子孫大谷筑前守某の宅跡があるという(風土記稿)。天正一三年(一五八五)と推定される一〇月二三日の北条家朱印状写(県史三)によれば、紺屋役を納めない地域のうちに「河名」がみえ、京紺屋津田氏にその徴収を命じている。


川名村
かわなむら

[現在地名]館山市川名

那古なご村の北西に位置し、西はかがみヶ浦に臨む。近世にはへい(はじめ北郡)に属した。文明一八年(一四八六)聖護院道興は「河名」を通り、里人が菜を洗うのをみて「つみためて洗ふ河なの里人よたかあつものの供へにやなす」と詠じている(廻国雑記)。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録に村名がみえ、高一五二石余(うち田八九石余)


川名村
かわなむら

[現在地名]富津市川名

富津村の南東に位置し、江戸湾に面する。天正四年(一五七六)と推定される三月二八日の北条氏規朱印状(山本文書)に北条氏の半手所領として川名とみえ、北条氏および敵対する里見氏が重視した湊津であった。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳では川谷村として高一二〇石。寛文三年(一六六三)篠部しのべ村とともに幕府評定所に願い、浦続きの大和田おおわだ村・岩瀬いわせ村との間で浦境を確定している(馬場家文書)。同四年の保科正景領知目録(寛文朱印留)に村名がみえ、飯野藩領。元禄郷帳でも高一二〇石余で、幕末もほぼ同様。寛延四年(一七五一)から御鷹捉飼場となっている(森家文書)。天明元年(一七八一)篠部村と村境を確定し絵図が作製されている(馬場家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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