改訂新版 世界大百科事典 「帝政問題」の意味・わかりやすい解説
帝政問題 (ていせいもんだい)
中華民国初期,1915年から16年にかけて大総統袁世凱が,民国を廃して帝政を復活させようとし,83日で失敗に帰した事件。袁世凱は,民国5年(1916)を洪憲元年と改元し,実質的には皇帝としてふるまったが,正式即位には至らなかった。袁世凱の野心にきっかけを与えたのは,日本の二十一ヵ条要求であった。1915年春,国家の存亡にかかわる広範な要求をつきつけられて,中国民衆の愛国心は大きく燃え上がり,日本商品ボイコット,国産品愛用,救国のための拠金を訴える運動が各地で展開された。袁世凱は,この時流に乗って皇帝の位につこうとしたのである。中国情勢の安定のみを願う帝国主義列国は,従来から袁世凱に対して好意的であったし,唯一の例外であった日本も,二十一ヵ条要求を認められたことに対する報酬を支払うであろう,と考えられた。
8月3日,アメリカ人顧問グッドノーが,中国には君主立憲政体が適するという趣旨の論文を発表すると,同月14日,袁世凱の意をうけた楊度らが籌安会(ちゆうあんかい)を発起して,帝政運動への口火を切った。さらに袁世凱の股肱梁士詒(りようしい)が請願団運動を組織するに及んで,事態は急進展をとげ,9月末には,国体問題〈解決〉のための国民代表大会開催が決定的となった。ところが,第1次大戦によるアジアの空隙を最大限に利用して,その勢力を伸張しようとする日本の外務省が,この問題への干渉を決意し,イギリス,ロシアもこれに従って,翌月,3国による帝政延期勧告がなされた。袁世凱は,帝政承認のための条件を日本に打診する一方,国内的な手続は相変わらず進行させ,ついに12月12日,推されて帝位につくという体裁を整えるに至った。同月15日,日本,イギリス,ロシア,フランス,イタリアが再び延期勧告の挙に出たが,袁世凱の野心を真にくじいたのは,その10日後の雲南における唐継尭らの挙兵に端を発する第三革命の波であった。袁世凱は,翌年3月22日,帝政の取消しを宣言し,6月6日,失意のうちに没した。なお,大隈重信内閣は3月7日,民間人の反袁活動に黙認を与えることを決定し,中国各地に無用の混乱をもたらした。
執筆者:藤本 博生
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報