皇帝(読み)コウテイ

デジタル大辞泉 「皇帝」の意味・読み・例文・類語

こう‐てい〔クワウ‐〕【皇帝】

《「皇」は美しく大であること、「帝」は徳が天に合するの意》
おもに中国で、天子または国王の尊称。始皇帝が初めて称した。
欧州・中東・中南米などの君主国で、君主の称号の一。欧州ではローマ皇帝位の継承者の称で、王より上位とされる。エンペラーイギリス・インド)、カイゼル(ドイツ・オーストリア)、ツァーリ(ロシア)、シャー(ペルシアなど)の訳語。帝王。
[補説]作品名別項。→皇帝
[類語]国王帝王キング大王王様

こうてい【皇帝】[作品名]

《原題、〈ドイツ〉Kaiserベートーベン作曲のピアノ協奏曲第5番の通称。1809年作。曲の雄大さからつけられた。
謡曲。五番目物金春こんぱる以外の各流。観世小次郎作。唐の玄宗皇帝が楊貴妃の病を憂えると、鍾馗しょうきの霊が現れ、病鬼を切り捨てる。
《原題、〈ドイツ〉Kaiserハイドン弦楽四重奏曲第77番ハ長調の通称。1797年作曲。エルデーディ四重奏曲の第3番。通称は、第2楽章に自身が作曲したオーストリア皇帝賛歌(のちのオーストリア帝国国歌)の旋律を用いたことに由来する。

おうだい〔ワウダイ〕【皇帝】

皇帝破陣楽おうだいはじんらく」の略。

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精選版 日本国語大辞典 「皇帝」の意味・読み・例文・類語

こう‐ていクヮウ‥【皇帝】

  1. [ 1 ] ( 「皇」は美しく大であること。「帝」は徳が天に合するの意 )
    1. 天子または国王の尊称。秦の始皇帝が初めて称した。帝王。天皇。
      1. [初出の実例]「今伝皇帝位於内親王」(出典:続日本紀‐霊亀元年(715)九月庚辰)
      2. 「既に訳し畢ぬるを皇帝聞き給て」(出典:今昔物語集(1120頃か)七)
      3. [その他の文献]〔書経‐周書・呂刑〕
    2. 外国に対する時の天皇の称号。
      1. [初出の実例]「皇帝〈華夷所称〉」(出典:令義解(833)儀制)
    3. 君主国の君主の称号。
      1. [初出の実例]「締盟各国君主の称号原語各種有之候処和公文には原語に拘はらす総て皇帝と可称定式に候条」(出典:太政官達第九八号‐明治七年(1874)七月二五日)
    4. こうていず(皇帝図)」の略。
      1. [初出の実例]「皇帝のあしにあたったぞうりとり」(出典:雑俳・柳多留拾遺(1801)巻一八)
  2. [ 2 ]
    1. [ 一 ] 謡曲。四・五番目物。観世・宝生・金剛・喜多流。観世小次郎信光作。別名「御悩楊貴妃(ごのうようきひ)」。唐の玄宗皇帝が楊貴妃の病いの重いのを憂えていると、老人が現われ、自分は鍾馗(しょうき)の亡霊で、かつて進士の試験に落ちて自殺した時、官を贈られ手厚く葬られたので、そのお礼に貴妃の病気を治すために現われたと語り、明王鏡を立てるように言って消える。やがて鍾馗の亡霊が現われ、鏡に映った鬼神に切りつけ、貴妃の病気を治す。明王鏡(みょうおうけい)
    2. [ 二 ] ハイドン作曲の弦楽四重奏曲第七七番。ハ長調、作品七六の三。一七九七年作。第二楽章の主題に自作のオーストリア国歌「皇帝讚歌」を用いている。
    3. [ 三 ] ベートーベン作曲のピアノ協奏曲第五番。変ホ長調、作品七三。一八〇九年作。三楽章からなり、曲調が雄大なところからこの名がついた。

おう‐だいワウ‥【皇帝】

  1. [ 1 ] 〘 名詞 〙 王として国を治める者。こうてい。
  2. [ 2 ]おうだいはじんらく(皇帝破陣楽)」の略。
    1. [初出の実例]「皇帝破陣楽 わうだいといふべし」(出典:龍鳴抄(1133)上)

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改訂新版 世界大百科事典 「皇帝」の意味・わかりやすい解説

皇帝 (こうてい)

王の中の王,諸王に超越する王の称号としての皇帝は,王権の及ぶ範囲が共同体や部族・氏族連合を越える広大な帝国の成立と結びついている。したがって,皇帝の称号の成立は,そこに含まれる国際関係を帝国の秩序に組み入れる観念の形成とも不可分といえる。日本の天皇号は,南北朝期の分裂した中国を統一した隋王朝の国際秩序の内部で,朝鮮半島の三国との国際的関係からみずからを〈大国〉として位置づけることによって成立したとされている。
 →天皇

秦の始皇帝より始まる。秦王政(すなわち始皇帝)は前221年に中国全土を武力で統一し,史上初めて中国内で唯一の王となると,それにふさわしい王号を烝相以下に命じて論議させた。丞相王綰(おうわん)らは古代に天皇,地皇,泰皇があり,泰皇が最高であるから泰皇とすべしと奏上したが,政はみずから皇帝の号を採用して王の尊号と定めた。また皇帝の自称を朕,命を制,令を詔というなど皇帝の専用語を定め,また従来の諡法(しほう)を廃止してみずからを始皇帝とし,以後二世,三世と数えて万世にいたらんと定めた。これは,皇帝の死後に(おくりな)をおくるならば,子孫や臣下が先帝の生前の行為をあげつらうことになり,皇帝は死後といえども批判を禁ずべき絶対の存在であると考えたためである。秦王朝が項羽や劉邦などによって滅ぼされると,中国は項羽以下の多くの新しい王によって分割統治された。前202年劉邦らが楚漢の争いに勝って項羽が自殺すると,諸王は一致して漢王劉邦に皇帝の尊号をたてまつり,劉邦は皇帝の位について漢王朝が始まった。ここで皇帝は王の中の王が持つ尊号となり,諸王の上位に位するものとなった。後漢末,魏王曹丕(そうひ)は漢の献帝から皇帝の位の譲りをうけて魏王朝を始め,いわゆる禅譲の例をひらいた。始皇帝が定めた皇帝という尊号には,その功と徳が古代の三皇五帝よりも大であるという意味がふくまれていた。帝は上帝ともいって在天の最高神,皇は祖先神や上帝の美称として用いられていたが,先秦の文献には,黄帝,帝尭,帝舜,帝嚳(こく)など,伝説上の帝王に帝という称号を用いる例があり,また戦国時代の半ば,前288年に,秦の昭襄王と斉の湣王が互いに約束して西帝,東帝と称したことがあり,王を超えるものとして帝の号が意識されていたことが認められる。なお,天子という称号は,宇宙を主宰する至上神である天の命をうけて,民の父母としてこれを治め,祖先である天を祭るものという儒学的な君主観念からの称号で,皇帝というのが正式の称号である。

執筆者:

明らかに王国の規模を超えた古代オリエント〈帝国〉の支配者の名称には,たとえば,古代ペルシア語の,xšāyaoiya xšāyaoiyānam(諸王のなかの王。たとえば,ギリシア語のbasileus,basileōn,ペルシア語のshāhānshāhに相当)のようなものがあるが,中世以来ヨーロッパで問題となる,王に優越するものとしての皇帝という名称はローマ帝国に由来する。その場合,ロマンス語およびケルト諸語ではインペラトルimperator,ゲルマン語およびバルト・スラブ語ではカエサルcaesarという,いずれもラテン語の名称が用いられている(ギリシア語については,以下の(3)参照)。

(1)imperatorは,〈命令する〉を意味するラテン語imperareに由来し,最初は主として軍隊に対し最高の指揮権をもつ者を指し,アウグストゥスによって,その称号の一部として(imperator caesar)用いられるようになった。ここから,たとえば,現代フランス語のempereur,ウェールズ語のymerawdwrが由来する。imperatorは中世では,ビザンティン帝国で皇帝を指すbasileus(後述)と等置された。カール大帝が800年のクリスマスにローマで帯びたimperator称号については,今日なお歴史家のあいだで解釈が定まらないものの,その結果,imperatorカール大帝と,basileus称号を帯びるビザンティン皇帝との間には,皇帝称号をめぐって,いわゆる中世における二皇帝問題が発生した(後述)。

(2)caesarは本来ラテン語の家名でありながら,アウグストゥス以来皇帝を意味する称号となった。ここから,ゲルマン語では,たとえば現代ドイツ語のカイザーKaiserが,スラブ語でも,たとえば現代ロシア語のツァーリtsar'が生まれた。tsar'称号もまた,imperator称号と同じく中世でビザンティン帝国のbasileus称号と等置されたが,そのtsar'称号を,920年代にはブルガリア人シメオン1世が(先行ブルガリア人支配者の称号khan=汗にかわって),1346年の戴冠式にはセルビア人ステファン・ドゥシャンが(kralj称号にかえて),1547年の戴冠式にはロシア人イワン4世が(先行支配者たちが最初に帯びていたknyaz'(公)称号,のちに帯びるようになったvelikii knyaz'(大公)称号の代りに),それぞれとなえたのは,いずれも,ビザンティン帝国の標榜する世界皇帝理念に対するみずからの態度表明としてであった。なお近代では,ピョートル大帝が,tsar'称号を廃して,代りに西方のimperatorを公式称号に採用したけれども,tsar'称号は依然として民間で存続した。

(3)王を意味した古典ギリシア語バシレウスbasileusはビザンティン帝国ではローマ皇帝を指すようになり,かかるものとしてビザンティン皇帝がみずから帯びた。これは,〈ビザンティン帝国〉という名称は近代になって与えられた呼称にすぎず,〈ビザンティン帝国〉と呼ばれるものは,古代ローマ帝国の中世における連続体であり,みずからを〈ローマ帝国〉と考えていたことからの当然の帰結であった。そのうえ,世界(オイクメネー)をおおうローマ帝国という理念は,4世紀初め,ローマ帝国がキリスト教化されるなかで,キリスト教終末神学に裏打ちされて,キリスト再現まで,人類をまとめあげておくべき,地上における唯一の帝国という理念にまで高められたのである。これが,ビザンティン帝国の政治的基本理念であり,したがって,ローマ皇帝称号はみずからの独占物であって,他国の支配者がみだりに僭称すべからざるもの,とされたのである。この観点からビザンティン帝国は,国家文書における外国元首の称号について,きわめて厳格な使い分けをするとともに,このローマ皇帝理念の補強物として,たとえば,ビザンティン皇帝を家父長とし,中世諸国家の君主をその息子,兄弟,友人などとする擬制的親族秩序をつくりあげた。中世における皇帝称号の問題は,ここに起因した。

 ビザンティン皇帝は,800年以来皇帝imperatorを称するカール大帝に対し,一連の交渉の末,812,813年その称号を認めた。だがそれは,世界で唯一つしかありえぬ〈ローマ人たちの皇帝basileus tōv Rōmaiōn=imperator Romanorum〉としてのビザンティン皇帝の下に立つ一介の〈皇帝imperator〉としてであり,しかも,キリスト教世界西半部を統一したカール大帝個人に一代限り認めたものとして,後継のカロリング朝フランク諸国王には,この単なる皇帝称号すら許さなかった。このような皇帝称号をめぐる理念的・政治的対立の問題は,〈皇帝Imperator〉を称したオットー1世以降の神聖ローマ帝国においてもひきつづき存続することとなる。

 ブルガリア人支配者シメオンが〈ブルガリア人ならびにローマ人の皇帝〉という称号を帯びたのは,彼の924年のコンスタンティノープル大攻勢前後であり,それは,ビザンティン皇帝の世界支配にみずからがとって代わろうという決意の宣言を意味した。これに対して,〈セルビア人ならびにローマ人の皇帝〉をとなえたセルビア人支配者ドゥシャンの場合には,むしろ,旧ビザンティン帝国領の大部分をその版図に治めた彼の,いまや世界帝国の支配者になったという,高揚した自己意識が読みとれる。そして,イワン4世の場合は,いうまでもなく,滅亡したビザンティン帝国の衣鉢を継承した,〈第三のローマ,モスクワ〉の理念(ローマ理念)の宣明である。

 中世では,皇帝称号の問題は,中世人独特の思考世界のなかで単なる名称の問題にとどまらない現実的意味をもっていた。近代では,ナポレオン1世は1804年に皇帝を称し,ローマ教皇を迎えて戴冠式を行い,ナポレオン3世もクーデタ後に皇帝を称した。ドイツ帝国(1871-1918)でも,プロイセン王が皇帝Kaiserの称号を用い,連邦諸国を代表し主権を行使した。また,イギリスのビクトリア女王は,本国では王を称しながらも,インドでは〈皇帝〉の称号を用いた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「皇帝」の意味・わかりやすい解説

皇帝
こうてい
Kaiser ドイツ語
emperor 英語

最高の世俗的支配者=君主の称号。

[平城照介]

ヨーロッパ

皇帝の称号はアウグストゥス以降のローマ皇帝に始まる。前期帝政は元首政とよばれるように、最高の軍隊統帥権=インペリウムを有したほかは、ローマ第一の市民=プリンケプスであるにすぎなかったが、ディオクレティアヌス以降の後期帝政では、専制的支配権を有するようになった。このローマ皇帝権は、帝国の東・西ローマへの分裂以後、2人の皇帝によって分有され、東ローマ皇帝権はビザンティン帝国の滅亡(1453)まで、バシレウスBasileusという称号のもとに存続したが、西ローマ皇帝権は西ローマの滅亡(476)とともに消滅した。

 紀元800年のカール大帝の皇帝戴冠(たいかん)は、ある意味で西ローマ皇帝権の復活であり、さらにオットー1世以降の神聖ローマ帝国の皇帝権も、カロリングの皇帝権の復活であったが、これら中世ヨーロッパの皇帝権には、ローマ的要素以外に、ゲルマン的要素とキリスト教的要素とが加わった。後者は、西欧キリスト教世界の全体に対する、具体的にはローマ教皇権に対する、世俗的権力による保護者としての皇帝という観念であり、教皇による皇帝戴冠の伝統がその象徴であったが、この要素は中世的皇帝権の理解の不可欠の前提をなすと同時に、次の二つの側面で、皇帝権に大きな問題を抱えさせる結果を生んだ。

(1)もともと皇帝の称号は、それが、国家や民族の範囲を超えた全世界的支配権である、という要求を含んでいた。ローマ帝国は全地中海世界を支配し、カロリング帝国も西欧キリスト教世界のほとんど全部を支配していたため、皇帝の現実的支配権と、その理念的要求とのずれは生じなかったが、神聖ローマ帝国の場合、皇帝権の担い手が、本国ドイツ以外にブルグントとイタリアのみを実質的に支配しえたにすぎないドイツ国王であったため、皇帝権の理念と現実との間に大きな食い違いが生じた。中世の政治理論家は、前者を皇帝の権威(アウクトリタス)とよび、後者をその権力(ポテスタス)とよんで区別するが、この権威は、皇帝が名実ともに全西欧教会に君臨するローマ教皇権の保護者であるという側面を媒介にしなければ、現実政治のうえでなんらの意味をももちえなかった。中世後期から近代にかけて、皇帝権が教皇権との結び付きをしだいに失うにつれて、皇帝権自体もその実質的意味を失い、ついには単なる君主の称号へと変化するのはそのためである。

(2)皇帝権と教皇権の間には、前者の後者に対する依存関係と並び聖職叙任権闘争で表面化する、両者の対立的側面も含まれた。この闘争以後、教皇権の皇帝権に対する優越性が強化され、インノケンティウス3世は、教皇の皇帝戴冠の伝統を皇帝承認権にまで拡大解釈し、ドイツ諸侯の皇帝選挙に干渉した。中世後期以降、皇帝権と教皇権の結び付きが失われた原因の一つには、皇帝権の側における、教皇権の束縛からの解放への動きも考えねばならない。カール4世の金印勅書は、皇帝選挙の法的手続を確立することにより、教皇の皇帝承認権を実質的に無視し、近世初頭には、教皇による皇帝戴冠の伝統も後を絶った。

 近世以降、皇帝権は実質的内容を失い、単なる君主の称号に変化した結果、ローマ的=中世キリスト教的皇帝権と歴史的にも理念的にもなんらつながりをもたない君主――神聖ローマ帝国の解体(1806)以後オーストリアの君主にすぎなくなったハプスブルク家や、ビザンティン帝国の滅亡により消滅した東ローマ皇帝権の継承者を主張するピョートル大帝以降のロシアの君主の場合は、まだある種の歴史的・理念的関連性が考えられる――も、皇帝の称号を帯びるという現象が生じた。ドイツ統一後のホーエンツォレルン家の君主、ナポレオンとその後継者を自任するナポレオン3世の場合などがそれにあたる。だが、これらの皇帝の称号のなかにも、皇帝という名称が本来もっていた、超国家的・超民族的支配権という観念が、まったく死に絶えていたわけではない。統一後のドイツ帝国は、プロイセン王国バイエルン王国、バーデン大公国その他諸領邦国家の統合体にほかならず、プロイセン国王をも兼ねる皇帝は、これら領邦国家の君主権をかなりの程度にまで容認したうえで、それより一段高い君主であり、またナポレオンの場合も、単にフランスの国王であるばかりでなく、征服した諸国家をも統合したナポレオン帝国の皇帝であった。

[平城照介]

中国

秦(しん)から清(しん)に至る歴代王朝の君主の称号。紀元前221年、六国を併合して統一国家を実現させた秦王政(始皇帝)が、丞相王綰(じょうしょうおうわん)らの答申を裁定して創始した。直接的には三皇(さんこう)(天皇(てんこう)、地皇(ちこう)、泰皇(たいこう))のうちの最高神である泰皇の「皇」と、上古の五帝の「帝」とをあわせたものであるが(『史記』秦始皇本紀)、この称号を採択した秦王の意図は、宇宙の最高神であり万物の総宰者である「皇皇(煌煌(こうこう))たる上帝」に自らを比擬し、それまで地上に現れたどの君主(帝、天子、王)よりもはるかに優越した地位と権威を天下に示すことにあったと考えられる。なお「始皇帝」「二世皇帝」の号はいずれも死後にたてられる諡号(しごう)(おくりな)であり、在位中は「皇帝」と称するのみであった。

 皇帝の号は漢王朝にも継承されたが、漢の支配体制は、郡県制を緩めてこれに伝統的な「封建」の論理を加味したもの(郡国制)であり、また法家一辺倒の秦に対して儒家思想が新しい装いのもとに復興してきたことに応じて、秦が捨てた「天子」の称号がふたたび復活した。かくて漢の皇帝は、「皇帝」と「天子」という二つの称号をあわせ称するようになったのであり、地上における最高権力者として君臨するとき、および祖先の霊を祭る場合には「皇帝」、外交の場合、および上帝を中心とする天地の諸神を祭るときには「天子」の号をそれぞれ用いた。この両号併用の制度は、以降の歴代の王朝でも受け継がれ、たとえば唐の皇帝の場合、その地位を象徴する璽印(じいん)は「神宝、受命宝、皇帝行宝、皇帝之宝、皇帝信宝、天子行宝、天子之宝、天子信宝」の八つで構成され、それぞれ使用目的が分別されていた。また漢代以降の君主は、政治的権威を確立ないしは継承して「皇帝」となり、上帝の命を受けて、または受命したことを継承して「天子」となり、この手続を経て初めて皇帝として君臨できたのであり、少なくとも唐代に至るまでの時代において、2次にわたる2種類の即位式が挙行されたのは、この理由による。

 秦の創始した皇帝の称号、および皇帝を頂点に置く支配体制は、1911年の辛亥(しんがい)革命に至るまでの2000余年の間存続したのであり、この点に中国前近代史上の最大の特質をみいだすことができる。

[尾形 勇]

『西嶋定生著「皇帝支配の成立」(『岩波講座 世界歴史4』所収・1970・岩波書店)』『尾形勇著『中国古代の「家」と国家』(1979・岩波書店)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「皇帝」の意味・わかりやすい解説

皇帝
こうてい
emperor; Kaiser

ヨーロッパ史の皇帝という称号は元来ローマ帝政開始期の官職インペラトルから発生し,帝政期のローマ国家の君主の地位を表現する概念であったが,ローマ皇帝権から派生して,ゲルマン部族系国家の君主権の表現としても,またローマ皇帝権への模倣,あるいは僭称としても使用されるにいたった。その例としてゲルマン系国家では,カルル1世 (大帝)のカロリング朝国家,オットー1世 (大帝)以降のザクセン朝,ザリエル朝,ホーエンシュタウフェン朝などが指摘できる。その場合,皇帝は本来一つの部族ないし民族の首長としての王よりも上位の,普遍的な支配権のにない手と考えられた。カルル1世による西ローマ帝国の復興,オットー1世による神聖ローマ帝国の建設は,カトリック教会を媒介とした古代ローマ帝国の皇帝の継承あるいは拡大の所産であり,ギリシア正教のロシアではモスクワ大公家がビザンチン (東ローマ) 皇帝を継承してツァーリと称し,ロマノフ朝にも継承されている。ローマ皇帝理念の継承は,キリスト教会の宗教的権威と結合あるいは混融しつつ中世を通じて常に再生産され,神聖ローマ帝国を通じて近代に及んでいるが,フランス革命後のナポレオン帝政,二月革命後のナポレオン3世の第二帝政,ドイツのホーエンツォレルン家によるドイツ第二帝国における皇帝は,すでに中世のカトリック的権威との結合関係を脱した近代政治社会の権力的凝集を表現する概念に成長しているのが認められる。皇帝は,東洋社会にも広く存在するが,中国では秦の始皇帝が天下を統一した際,皇帝という称号が定められ,以来歴代天子の称となった。天子の称が周代の宗法封建制度を基礎として成立したのに対し,皇帝は官僚制度をもって,全人民を一律に支配する (斉民制) 専制君主を意味した。漢代以後,天子と皇帝の称号は両用されている。秦の始皇帝の創始した皇帝が,東アジアの他の地域に拡大,継承される場合が多く,モンゴル人国家の汗 (→カガン〈可汗〉 ) の地位や日本の天皇の地位もこのような概念拡大の系統に属する。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「皇帝」の解説

皇帝(こうてい)

①〔ヨーロッパ〕emperor[英],Kaiser[ドイツ]帝国の君主。多民族を支配する世界の帝国の意味もあるが,西洋史上はローマ皇帝をもってその初めとし,後代の皇帝もローマ皇帝の後継者との観念がある。キリスト教世界の守護者としての性格もここから由来し,キリスト教世界にあっては皇帝はただ一人との観念が生じた。カール大帝の西ローマ皇帝,オットー1世以来の神聖ローマ皇帝などが有名である。

②〔中国〕中国では三皇五帝というように元来は「皇」も「帝」も伝説上の帝王の称号であったが,戦国の6国を平定した始皇帝が統一君主の称号として皇帝の名を用い始め,以後,清朝最後の皇帝である宣統帝溥儀(ふぎ)に至るまで歴朝君主はこの称号を使用した。中国の政治理念では,皇帝は中国のみならず全世界を支配する唯一の主権者とされた。

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普及版 字通 「皇帝」の読み・字形・画数・意味

【皇帝】こう(くわう)てい

王。在天の神。〔書、呂刑〕皇、庶戮(しよりく)の不辜(ふこ)(無実)なるを哀矜(あいきよう)し、に報ずるに威を以てす。

字通「皇」の項目を見る

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百科事典マイペディア 「皇帝」の意味・わかりやすい解説

皇帝【こうてい】

ベートーベンのピアノ協奏曲第5番・変ホ長調。1809年に作曲され1811年にライプチヒで初演。翌1812年,チェルニーの独奏でウィーン初演。ルドルフ大公に献呈された。〈皇帝Kaiser〉の呼称は堂々たる曲想と規模の大きさから後年つけられたもの。

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旺文社世界史事典 三訂版 「皇帝」の解説

皇帝
こうてい

中国における唯一の王として定められた称号。秦王政(始皇帝)によって初めて自称された
従来の王という称号を超え,地上の絶対的権力者にふさわしい尊称とされ,秦以後の王朝にも踏襲されていった。中国伝説上の8人の帝王の総称である三皇五帝よりも偉大であるという意味が含まれている。

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デジタル大辞泉プラス 「皇帝」の解説

皇帝〔ベートーヴェン〕

ドイツの作曲家L・v・ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番(1809)。原題《Kaiser》。ルドルフ大公に献呈。『皇帝』という名はベートーヴェンが名付けたものではなく、後にその勇壮な曲想から付けられたと考えられている。

皇帝〔ハイドン〕

オーストリアの作曲家ヨーゼフ・ハイドンの弦楽四重奏曲第77番(1797)。原題《Kaiser》。エルデーディ四重奏曲の一つ。名称は後のオーストリア皇帝フランツ1世の賛歌が第2楽章の旋律に使われていることに由来する。

皇帝〔ミュージカル〕

宝塚歌劇団による舞台演目のひとつ。作:植田紳爾。1998年、宝塚大劇場にて星組が初演。ローマ皇帝ネロの生涯を描くミュージカル。

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世界大百科事典(旧版)内の皇帝の言及

【ベートーベン】より

…しかし,不安定な社会情勢下にあっても1806‐08年は〈傑作の森〉と呼ばれる創作の絶頂期にあたり,《交響曲第4番》作品60(1806),《第5番・運命》,《第6番・パストラーレ》(《田園交響曲》)作品68(1808),《ピアノ協奏曲第4番》作品58(1806),《バイオリン協奏曲》作品61(1806),《コリオラン序曲》作品62(1807)などの大管弦楽曲が次々に生み出されている。 1809年に《ピアノ協奏曲第5番・皇帝(エンペラー)》作品73を作曲して後期様式時代に入っていく。この年にはフランス軍が再度ウィーンを包囲し,最大のパトロンであったルドルフ大公が疎開していき,ピアノのための《告別ソナタ》作品81a(1810)が作曲されることになる。…

【インペラトル】より

…そのため共和政期末の超国法的強権取得者,スラ,ポンペイウス,カエサル等が好んでこの称号を名乗った。アウグストゥスはインペラトルをプロコンスル命令権(軍指揮権)取得者と見なし,これを自らの個人名に組み入れたが,ウェスパシアヌス以降その先例が定着してインペラトルは皇帝をさす公称になった。この場合,常に決定的なのは〈おおインペラトル〉という元老院での斉唱,後には兵士の歓呼で,そのため3世紀には帝国各地の軍団兵士の喚声が皇帝併立の事態を生んだ(軍人皇帝時代)。…

【王】より

…一般的な概念としては一国家,一民族,一部族などの最高支配者のことをいう。小規模な共同体の首長から強大な王国の支配者まで,世界史上,さまざまな王の類型が存在するが,通常,複数の国家の最高支配者とされる皇帝とは区別される。歴史的にみれば,古代の諸民族は国家形成の時期には王によって統合・支配されるのが普通で,ギリシア,ローマの都市国家でも形成期の段階では,戦士貴族のうち,〈同等者中の第一人者〉が王となった。…

【皇帝教皇主義】より

…皇帝Caesar,Kaiserが同時にローマ教皇Pope,Papstでもあるという原則,つまり,精神界をつかさどる教会の最高権威が,俗界の長たる国家の最高権力者の手中に握られているような国家・教会関係を示す造語として,18世紀以来使用され,本来,4世紀以後のローマ帝国(ビザンティン帝国)を対象とするものであったが,のちには,1917年までのロシア国教会,中世初期のカール大帝のフランク王国,近代のカトリック専制国家,領邦君主が自国のプロテスタント教会の最高司教の地位にあったドイツ・プロテスタント領邦国家などにも拡大適用された。 19世紀カトリック歴史家によってしばしば用いられたことからもわかるように,この概念はもともと,中世西ヨーロッパで叙任権闘争を通じて典型的に出現したような,ローマ教皇が神聖ローマ皇帝に対し優越する権威を主張した国家・教会関係(教皇皇帝主義Papocäsarismus)の反転像を示そうとしたものである。…

【秦】より

…戦国七雄の一つ。前221年に秦王政(始皇帝)が全国を統一し,中国最初の統一帝国となる。統一後,秦はそれまでの社会体制を大改革し,郡県制を制定,官僚組織を整備するなど中央集権的国家体制をしき,これらの制度はのちの中国各王朝に引きつがれることになる。…

【神聖ローマ帝国】より

…中世西ヨーロッパのキリスト教世界は,教皇皇帝という二つの中心をもつ楕円のような世界であった。そこでは,ローマ教皇を頂点とする教会が〈キリストの神秘体〉と考えられ,組織全体として〈聖なるローマ教会sancta Romana ecclesia〉とよばれたのに対応して,かかる教会の防衛を任務とする皇帝によって支配される超国家的領域は,〈ローマ帝国〉〈神聖帝国〉ないし中世中期以降は〈神聖ローマ帝国〉とよばれた。…

【神寵帝理念】より

…〈神の恩寵によって地上に立てられた皇帝〉(ドイツ語でKaiser von Gottesgnaden)を支配権の根底におく考え方。神帝とは区別される。…

【ビザンティン帝国】より


【キリスト教ローマ帝国理念】
 コンスタンティヌス1世の時代にカエサレアの司教エウセビオスによって提唱されたこの理念の内容は次のようであった。すなわち,ローマ帝国初代の皇帝アウグストゥスは,神の摂理で世界をキリスト降誕のそのときに統一し,それによってキリストの福音がひろまるべき政治的な枠組みをつくり上げた。その300年後にコンスタンティヌス1世が現れ,同じく神の摂理で自らキリスト教に改宗するとともに,ローマ世界帝国のなかにキリストの教えを有機的に植えつけた。…

※「皇帝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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