平井毓太郎(読み)ヒライ イクタロウ

20世紀日本人名事典 「平井毓太郎」の解説

平井 毓太郎
ヒライ イクタロウ

明治・大正期の小児科学者 京都帝大医科大学教授。



生年
慶応1年10月11日(1865年)

没年
昭和20(1945)年1月12日

出生地
三重県

旧姓(旧名)
木場

学歴〔年〕
東京帝大医科大学〔明治22年〕卒

学位〔年〕
医学博士〔明治37年〕

主な受賞名〔年〕
帝国学士院賞〔昭和7年〕「脳膜炎の研究」

経歴
明治27年京都府立医学校(現・京都府立医大)教諭となり、内科部長を兼任。32年小児科学研究のためドイツに留学。帰国後、新設の京都帝大医科大学助教授となり、35年教授、小児科学講座を担当。大正14年退職。この間12年に乳幼児の脳膜炎様病症(いわゆる脳膜炎)が母親が使用する含鉛白粉による鉛中毒症であることを発見、この業績により昭和7年学士院賞を受賞した。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「平井毓太郎」の解説

平井毓太郎 ひらい-いくたろう

1865-1945 明治-昭和時代前期の小児科学者。
慶応元年10月11日生まれ。ドイツ留学後,明治35年京都帝大教授。授乳中の乳幼児にみられた脳膜炎様病症の原因が母親の使用する含鉛白粉(がんえんおしろい)による鉛中毒であることを発見した。昭和7年学士院賞。昭和20年1月12日死去。81歳。三重県出身。帝国大学卒。旧姓は木場。

平井毓太郎 ひらい-りゅうたろう

ひらい-いくたろう

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「平井毓太郎」の解説

平井 毓太郎 (ひらい いくたろう)

生年月日:1865年10月11日
明治時代;大正時代の小児科学者。京都帝大医科大学教授;医学博士
1945年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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