ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「平和四原則」の意味・わかりやすい解説
平和四原則
へいわよんげんそく
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…これに対して知識人,革新陣営を中心に全面講和運動が高まり,50年1月に平和問題談話会は〈講和問題についての声明〉を発表し,〈日本の運命は,日本が平和の精神に徹しつつ,而も毅然として自主独立の道を進む時にのみ開かれる〉として,全面講和以外にないと主張した。また,51年1月の日本社会党第7回大会では,〈講和問題に対する態度に関する件〉で,全面講和・中立堅持・軍事基地提供反対の平和三原則に,再軍備反対を加えて平和四原則を決定した。この平和四原則は同年3月の総評第2回大会でも決定されるなど,労働組合,農民組合などにも急速に波及していった。…
…この大会で採択された総評の綱領の前文には,総評の運動の基本理念が〈あらゆる自由にして民主的な労働組合の結集された力によって,労働者の労働条件を維持,改善し,その政治的,社会的地位の向上をはかり,日本の民主主義革命を推進するとともに,社会主義社会の建設を期す〉と述べられていた。さて,総評は51年の第2回大会で,全面講和・中立堅持・軍事基地反対・再軍備反対の〈平和四原則〉を決定する。また,この大会では前年の結成大会で採択された行動綱領の中に示されていた,国際自由労連にすみやかに加盟するという方針が変更され,それ以後,国際労働組織への加盟は単産の決定にまかせることになった。…
…左右の対立は50年1月の第5回大会で人事と青年部問題をめぐり紛糾し党分裂となったが,まもなく妥協が成立し,4月の大会で統一を回復した。党は統一を回復したが,朝鮮戦争が勃発し講和が近接した51年1月の第7回大会では講和と平和問題をめぐってふたたび左右は対立し,空席だった委員長に鈴木が選ばれ,全面講和,中立,基地反対,再軍備反対の平和四原則を確定した。鈴木は〈青年よ再び銃をとるな〉とのアピールを発した。…
…
[第2期(1951‐60)]
(1)占領軍のバックアップのもとに成立した総評は,51年3月の第2回大会を機に民同勢力の左右への分解をはらみながら〈ニワトリからアヒルへ〉と変貌を遂げていった。当時,対日講和会議を前にして,全面講和か単独講和かをめぐって国論が二つに分かれていたが,総評はこの大会で右派の主張を抑えて平和四原則(全面講和,中立堅持,軍事基地反対,再軍備反対)を採択することによって,朝鮮における〈国連軍の警察行動〉支持という結成当初の姿勢から転換し,高野実を新しい事務局長に選出した。この転換は,朝鮮戦争とそれにともなう日本の軍事基地化・再軍備の進展のなかで,日本が戦争に巻き込まれるのではないかという不安が大衆的に広まっていったことを背景とするものであった。…
※「平和四原則」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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