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平塚飄斎

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美術人名辞典の解説

平塚飄斎

与力。称利助、字士梁、隠居後飄斎、別号津久井清影。父節斉について学び所司代に仕う。天保8年飢饉の際は大いに救世の事に当る。勤王の志深く、山陵の取調にも力をつくす。安政大獄に関聯して、草間五郎・木村勘助らと謹慎を命ぜられ、次で永蟄居となるが3年後に赦される。贈正五位。『陵地私考』『陵基一隅』等著書がある。明治8年(1875)歿、84才。

出典|(株)思文閣
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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

平塚飄斎 ひらつか-ひょうさい

1794-1875 江戸時代後期の儒者,山陵研究家。
寛政6年閏(うるう)11月7日生まれ。京都町奉行所与力,のち旗本。嘉永(かえい)7年(1854)三条実万(さねつむ)らと山陵会をつくり,「陵墓一隅抄」をあらわし水戸の徳川斉昭(なりあき)に献呈。安政の大獄で一時,永蟄居(えいちっきょ)の処分をうける。明治8年2月13日死去。82歳。山城(京都府)出身。名は茂喬。字(あざな)は士梁。別名に津久井清影。

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書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

平塚飄斎

没年:明治8.2.13(1875)
生年:寛政6.閏11.7(1794.12.28)
江戸後期の京都の儒者,山陵研究家。京都町奉行所与力,のちに旗本。本名茂喬,字士梁,飄斎と号し,別名を津久井清影と称した。安政の大獄(1859)に連座するが,のち許される。山陵の研究家として知られ,安政1(1854)年に三条実万,砂川健次郎らと山陵会を創設,また幕府による文久年間の修陵に際しては,谷森善臣らと共に諸陵調方を依嘱された。一方で頼山陽らの文人とも交流があり,詩文,狂詩などをよくした。与力時代,天保の大飢饉では私財を投げ打ち飢民を救済するなど,義の人でもあった。著作は『陵墓一隅抄』『聖蹟図志』『牧民心鑑解』『大和路便覧』など多数。<参考文献>和田萃「山陵家平塚瓢斎」(森浩一編『考古学の先覚者たち』)

(中村一紀)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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