朝日日本歴史人物事典 「平塚飄斎」の解説
平塚飄斎
生年:寛政6.閏11.7(1794.12.28)
江戸後期の京都の儒者,山陵研究家。京都町奉行所与力,のちに旗本。本名茂喬,字士梁,飄斎と号し,別名を津久井清影と称した。安政の大獄(1859)に連座するが,のち許される。山陵の研究家として知られ,安政1(1854)年に三条実万,砂川健次郎らと山陵会を創設,また幕府による文久年間の修陵に際しては,谷森善臣らと共に諸陵調方を依嘱された。一方で頼山陽らの文人とも交流があり,詩文,狂詩などをよくした。与力時代,天保の大飢饉では私財を投げ打ち飢民を救済するなど,義の人でもあった。著作は『陵墓一隅抄』『聖蹟図志』『牧民心鑑解』『大和路便覧』など多数。<参考文献>和田萃「山陵家平塚瓢斎」(森浩一編『考古学の先覚者たち』)
(中村一紀)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報