普通、フランス革命初期に成立したフランス最初の国会をさすが、第三共和政初期の国会、および第四、第五共和政の下院を、いずれもフランス民主主義の伝統にちなんで国民議会とよぶ。
1789年5月にベルサイユに招集され、フランス革命の発端となった三部会から、第三身分のブルジョア代議員たちが分離、6月17日、国民の代表として国民議会の呼称を採用、同月20日、「球戯場の誓い(テニスコートの誓い)」で、王国の憲法制定まで解散しないことを誓い、僧侶(そうりょ)・貴族の代議員も合流、王権もこれを認めた。7月9日「憲法制定国民議会」と改称され、反革命側はその弾圧を図ったが、革命的民衆の支援のもとに議会は活動を開始した。1789年10月、パリに移り、国民主権、立憲王制、三権分立、制限選挙の一院制などを含むフランスで最初の憲法「1791年憲法」を制定後、1791年9月30日解散した。この間、「封建的諸権利廃止宣言」や「人権宣言」を発して近代化を進め、教会財産没収と国有化、後の紙幣アッシニャ発行、聖職者基本法制定などによって財政、宗教問題に取り組み、また行政機構・区画の整備、司法改革を行い、国内関税やギルドを廃止して経済上の自由主義を発展させた。一方、戒厳令やル・シャプリエ法を制定し、シャン・ド・マルスの虐殺事件のように民衆運動を抑圧する動きを示したが、総じて絶対王制、封建遺制を改革して、近代国家の政治・社会体制を編成し、ブルジョア民主主義革命を推進する中核的役割を果たした。
なお、第三共和政初期の1871年2月に成立、1875年12月末に解散した国会はプロイセン・フランス戦争敗北後の講和仮条約を承認し、1872年3~5月パリ・コミューンの反乱鎮圧を経て、1875年1月、共和制、大統領制、二院制、男子普通選挙などを含む「1875年憲法」を制定した。また、第四共和政期(1946~1958)の下院は、フランス初の婦人を含む普通選挙で選ばれ、強い権限をもった。第五共和政期(1958年以降)の下院は逆に行政府優越下に置かれている。
[山上正太郎]
1789年のフランス革命当初の議会の名称であり,その後も,今日まで数次にわたって採用されたフランスの議会の名称。
1789年に,全国の聖職者,貴族,第三身分の代表者から成る全国三部会が召集され,5月5日に開会式が行われたが,議決方法をめぐって意見が対立した。すなわち,聖職者と貴族の代表たちは,旧来の慣習通り3身分がそれぞれ別個に会議を開くことを主張したが,第三身分の代表たちは,3身分が合同して会議を開き票決は頭数制によるべきであると主張した。第三身分の代表たちは,聖職者や貴族に合同を呼びかけるとともに,三部会という名称が身分の区別に基づくものであるからこれを改めようとし,みずからが国民全体の代表であるという意味で,国民議会という名称を採用することを6月17日に決定した。さらに彼らは,6月20日に室内球戯場に集まり,国民議会は憲法の制定まで解散しないことを誓ったので(テニスコートの誓い),やがて聖職身分の多数と貴族身分の一部も国民議会に合流するにいたり,結局,国王も3身分の合同を認めた。こうして,6月27日までのうちに,もとの全国三部会の代表者たちのすべてが国民議会に合同することになった。そこで国民議会は憲法の制定に着手し,そのため7月9日に名称を憲法制定国民議会と改めた。したがって,これ以後の議会は憲法制定議会Assemblée constituanteと略称される場合が多い。この憲法制定議会は,フランス最初の成文憲法である1791年憲法(政体は立憲王政)を制定したのち,同年9月30日に解散した。一般にフランス革命期の国民議会という場合には,憲法制定議会と改称したのちも含めて,1789年6月17日から91年9月30日までの議会(その議員はすべてもとの全国三部会の代表者たち)を総称することが多い。
次に,普仏戦争でフランスが敗北して第二帝政が崩壊したのち,1871年2月に選出されてボルドーで開会された議会もまた国民議会という名称をとった。この国民議会は,3月にベルサイユに移り,パリ・コミューンを鎮圧したのち,補充選挙で議員数をふやし,新しい政体について長期間の議論を重ねたすえ,1875年の憲法を制定して第三共和政を確定し,同年末に解散した(第三共和政下の議会は代議院と元老院との二院制である)。
さらに,第2次世界大戦で第三共和政が崩壊したのち,第四共和政と第五共和政のもとにおいても,立法府のうちの下院に相当するものが国民議会という名称をとった。すなわち,1946年の憲法で定められた第四共和政では,立法権は国民議会と共和国評議会との二院に属するものとされ,次いで,58年にド・ゴールのもとで発足した第五共和政も,同年10月の憲法により,国民議会と元老院との二院制を採用した。この制度は現在まで継続しており,国民議会の議員は直接普通選挙によって選出されている。
執筆者:遅塚 忠躬
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①〔フランス〕Assemblée nationale 1789年に召集された三部会が,第三身分の主導下に同年6月17日にとった名称。7月9日に憲法制定国民議会と改称され,91年憲法を制定した。国民議会の名称は,プロイセン‐フランス戦争後の第三共和政,第二次世界大戦後の第四共和政および第五共和政の下院によっても採用されている。
②〔ドイツ〕フランクフルト国民議会
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…通常,全国民の利益を代表する民選議員によって組織され,上院に比して任期が短く,多くの場合,解散によって民意を問い直す制度を備えている。日本の衆議院,イギリスの庶民院House of Commons,アメリカの代議院House of Representatives,フランスの国民議会Assemblée nationale,ドイツの連邦議会Bundestagが下院に該当する。民主化が進むとともに,議会内での勢力関係はしだいに下院を優越させる方向へ変化した。…
…市民革命は,この一体性をもった国民が君主に代わって主権者の位置につくことにより達成された。それとともに,絶対王政下の常備軍は国民軍となり,貴族,僧侶,市民(まれには農民も含む)などの諸身分の代表者による等族会議は国民議会となった。ここに,近代国民国家が成立する。…
…すなわち,貴族は3身分がそれぞれ別個に会議を開くことを主張したが,第三身分は3身分の合同と頭数制の議決とを要求していた。89年5月に全国三部会が開かれると,初めから議決方式をめぐる紛糾が生じ,第三身分の議員たちはみずから〈国民議会〉と名のり,憲法の制定までは解散しないことを誓った(テニスコートの誓い)。その固い決意をみて,国王もやむなく聖職者と貴族に国民議会への合流を命じ,全国三部会は89年7月に〈憲法制定国民議会〉という名称をとることになった。…
※「国民議会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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