広丁
ひろちよう
江戸時代の坪井地域は平坦で、下級武士の小屋敷がびっしりと並んだ。そのため火事が発生すると、たちまち数百戸が焼失する状況であった。三代藩主細川綱利の時代では万治元年(一六五八)三月四〇〇余戸、寛文三年(一六六三)二月五〇〇余戸、元禄四年(一六九一)二月二三日には、手取黒鍬町から出火し、千反畑・立田口(子飼)・新屋敷まで焼失する大火となった。元禄大火の復興に際し、延焼防止のため防火地帯として広い通りを作ることとなり、元禄四年七月に着工し、同年一一月に竣工した(熊本藩年表稿)。坪井広丁は白川そばの井川淵町から西は坪井川そばの町人町新坪井八百屋町までで、千反畑を南北に二分し新坪井を北と南に区画した。現在の藤崎八旛宮参道および熊本電鉄藤崎宮前駅の広丁はその名残である。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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