朝日日本歴史人物事典 「建部武彦」の解説
建部武彦
生年:文政3(1820)
幕末の筑前国福岡藩士。初め源兵衛,孫左衛門。名は自強。自福の長男。弘化2(1845)年家督を相続。家禄700石。大組頭,陸士頭,無足頭を勤め,嘉永6(1853)年御用聞役に任ぜられる。元治1(1864)年第1次長州征討の際,長州(萩)藩と征長軍総督徳川慶勝の間を周旋。また都落ちをして長州に身を寄せていた尊攘派公家三条実美ら5卿が,太宰府に引き移れるべく尽力した。翌慶応1(1865)年帰藩するも藩論は一変,佐幕派が主流を占め,加藤司書ら勤王党を救い切れず,逆に「私曲を企て国法を犯す」との罪で自宅禁固ののち,福岡城下の安国寺で切腹を命ぜられた。なお子の小四郎は明治10(1877)年,不平士族を糾合して西南戦争に呼応し斬首されている。
(岩下哲典)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報