日本大百科全書(ニッポニカ) 「弘治帝」の意味・わかりやすい解説
弘治帝
こうちてい
(1470―1505)
中国、明(みん)朝第10代の皇帝(在位1487~1505)。第9代の成化(せいか)帝の第3子。名は祐(ゆうどう)。諡(おくりな)は敬皇(けいこう)帝。廟号(びょうごう)は孝宗(こうそう)。年号により弘治帝とよばれる。帝の生母紀氏は、南方の少数民族土官(明が異民族の首長(しゅちょう)に与えた官職)の娘といわれ、多くの苦労を重ねて成長した。18歳で即位。前帝の遺臣や宦官(かんがん)の介入を退け、徐溥(じょふ)、劉健(りゅうけん)、馬文升(ばぶんしょう)、劉大夏(りゅうたいか)らを用い、綱紀の粛正を行って支配体制の立て直しを図った。世に明代中興の英主といわれ、北方民族の侵入もやんで都は比較的平静であったが、人民は依然として重税に悩み、小規模な反乱は絶えなかった。明初以来の諸法令を集大成した総合的行政法典『大明会典』が編纂(へんさん)されたが頒行されず、次の正徳帝のときに補正刊行された。
[鶴見尚弘]