正徳帝(読み)せいとくてい(英語表記)Zhèng dé dì

改訂新版 世界大百科事典 「正徳帝」の意味・わかりやすい解説

正徳帝 (せいとくてい)
Zhèng dé dì
生没年:1491-1521

中国,明朝第11代の皇帝在位1505-21年。姓は朱,名は厚照,廟号は武宗,年号により正徳帝とよばれる。第10代孝宗の長子で,暗愚ではなかったが,少年時代から奇行が多く,放縦逸楽の生活に終始した。15歳で即位後も奇行はやまず,商人のまねごとをしたり,宮廷をぬけでて町への微行を楽しみ,宮中にイスラムの礼拝堂をまねて豹房新寺をつくり,淫楽のかぎりをつくすありさまであった。この間,政治の実権宦官劉瑾奸臣の江彬らに握られ,綱紀は頽廃し,賄賂が公行して社会不安が増大した。そのため,安化王朱寘鐇(しゆしはん)や寧王朱宸濠ら,皇族のなかから反乱者が出たり,畿内におこった劉六・劉七の乱をはじめとする農民の反乱が相次いだが,反省しなかった。1519年(正徳14)寧王の乱がおこると,親征を名目に南巡したが,帰途,誤って河水に落ち,それが原因で病気にかかり,豹房のなかで没した。子供をもうけず,大礼の議がおこる原因をつくった。
寧夏の乱
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「正徳帝」の意味・わかりやすい解説

正徳帝(しょうとくてい)
しょうとくてい
(1491―1521)

中国、明朝(みんちょう)第11代の皇帝(在位1505~21)。名は厚照、諡(おくりな)は毅(き)皇帝。廟号(びょうごう)は武宗。年号により正徳帝とよばれる。弘治帝(こうちてい)の長子。暗愚ではなかったといわれるが、14歳で即位後、政治をまったく顧みず、常軌を逸した行いが多かった。宦官(かんがん)を側近とし、悪名高い劉瑾(りゅうきん)をとくに信頼して政治を任せ、自らは宮中に美人を囲って遊興にふけり、チベット仏教(ラマ教)に凝って自ら「大慶法王」と号した。政治の実権は劉瑾が握り、正義派は退けられた。圧政に耐えかねた人民は各地で蜂起(ほうき)し、皇族の乱も起こった。海外からはポルトガル人の来航が始まり、明朝は内外ともに重大な事態を迎えた。遊漁中、誤って湖に落ち、それがもとで翌年没した。

[鶴見尚弘]


正徳帝(せいとくてい)
せいとくてい

正徳帝

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「正徳帝」の意味・わかりやすい解説

正徳帝
せいとくてい
Zheng-de-di; Chêng-tê-ti

[生]弘治4(1491)
[没]正徳16(1521)
中国,の第 11代皇帝 (在位 1506~21) 。名は厚照。廟号は武宗。弘治帝の長子。学を好み,仏教梵語に通じ暗愚ではなかったが,長じて後宮に美人を入れ,淫楽にふけったため,宦官劉瑾 (りゅうきん) や奸臣江彬 (こうひん) らが横暴をきわめ,各地に民乱が発生したほか,皇族の安化王し鐇 (しはん) や寧王宸濠の反乱なども起った。またポルトガルの来航が始ったのもこの頃で,内外多事のなかに没した。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

今日のキーワード

部分連合

与野党が協議して、政策ごとに野党が特定の法案成立などで協力すること。パーシャル連合。[補説]閣僚は出さないが与党としてふるまう閣外協力より、与党への協力度は低い。...

部分連合の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android