日本歴史地名大系 「役内村」の解説
役内村
やくないむら
天正一八年(一五九〇)頃と思われる「御年貢取り立て等その日記共の写」(色部文書)に「最上へ渡分、八口内」とあり、一六世紀末最上氏が年貢取立てを請け負っている。「柞山峯之嵐」の伝えるところでは「八口内要害」には「最上境目鮭登城主佐々木典膳、金山城主丹与三左衛門か押」として小野寺氏の家臣尾張守平定冬が配されていたが、文禄二年(一五九三)佐々木典膳に攻められ討死し、最上の支配下に入ったという。
正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に高の記載はなく、
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報