雄勝郡(読み)おがちぐん

日本歴史地名大系 「雄勝郡」の解説

雄勝郡
おがちぐん

面積:一〇二五・二三平方キロ
雄勝おがち町・羽後うご町・皆瀬みなせ村・稲川いなかわ町・東成瀬ひがしなるせ

秋田県最南東部に位置し、東は奥羽山脈の峰をもって、岩手県和賀わが湯田ゆだ町・胆沢いさわ郡胆沢町・一関いちのせき市、宮城県栗原くりはら花山はなやま村・玉造たまつくり鳴子なるこ町と境し、南は奥羽山脈の一角神室かむろ山から西の鳥海山に連なる峰々で山形県最上もがみ郡最上町・新庄しんじよう市・最上郡金山かねやま町・真室川まむろがわ町と境し、西は出羽山地を境に由利ゆり鳥海ちようかい村・矢島やしま町・東由利ひがしゆり町と、北は平鹿ひらか雄物川おものがわ町・十文字じゆうもんじ町・増田ますだ町・山内さんない村と接する。郡中央部は雄物川上流域を中心とする湯沢ゆざわ市で横手よこて盆地の南部に位置する。県九郡中四番目に広大な面積を有するが、約八〇パーセントが森林である。

雄物川の源流は南部の山形県境にあり、おもな支流は南から役内やくない川・高松たかまつ川・皆瀬みなせ川・成瀬なるせ川などで、ほとんど奥羽山脈から西流する。これらの中小河川に沿って街道が通り、大部分の集落はその沿道に位置する。幹線道路である国道一三号(旧羽州街道)は山形県境雄勝峠を越え、湯沢市に達するまで雄物川に沿って走る。郡西部の羽後町西部の田代たしろ川だけが雄物川水系でなく、由利郡へ流入して高瀬たかせ川となり、子吉こよし川と合して本荘ほんじよう市で日本海に入る。

「続日本紀」天平五年(七三三)一二月二六日条に「出羽柵遷置於秋田高清水岡、又於雄勝村郡居民焉」とあり、雄勝郡が出羽国に建郡された。当時の郡域は南域のみが定められ、北辺は未定で、「征夷」の北進に従って領域も拡大したものと考えられる。雄勝郡の北方平鹿郡の初見は同書天平宝字三年(七五九)であり、その頃には北境も定まったものと思われる。「三代実録」元慶四年(八八〇)二月二五日条には「先是出羽国言、諸管郡中山北、雄勝平鹿山本三郡」とあり、この頃から三郡を総称して「山北」とよんでいるが、これは鎌倉期になっても踏襲され「吾妻鏡」文治六年(一一九〇)正月六日条に「兼任亦向千福山本之方」とある。千福は山北で、また仙北・仙乏とも書く。湯沢市松岡まつおか経塚出土の建久七年(一一九六)の銅製経筒残欠銘、横手市金沢山八幡かねざわやまはちまん神社蔵の貞治四年(一三六五)の大般若経奥書にみえるように、雄勝郡の呼称は中世を通じて使用されたが、しだいに三郡の区別が失われ、郡名に冠した山北の総称が一般的に使用されるようになった。戦国時代には雄勝・平鹿両郡を上浦かみうらと称し、豊臣政権の奥州仕置の実施された天正一八年(一五九〇)以降になると「仙北三郡之内上浦一郡」(色部文書)と、仙北地方を北浦きたうら中郡なかぐん・上浦の三郡に分けてよんだ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報