日本歴史地名大系 「川井村」の解説
川井村
かわいむら
川井村
かわいむら
川井村
かわいむら
- 静岡県:袋井市
- 川井村
川井村
かわいむら
中央部を閉伊川が東流、中川井で支流
慶長六年一〇月一四日の南部利直知行宛行状(宝翰類聚)によれば、楢山帯刀佐の
川井村
かわいむら
川井村
かわいむら
正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に湯曾川井村二五六石とある。近世初期、当村と役内村は肝煎が一人で村方の帳簿もいっしょであったが、慶長二〇年(一六一五)、梅津半右衛門の指示で二村に分れたという(宝暦一三年「雄勝郡役内山斧剪御訴訟奉願候ニ付入会三ケ村旧記書上帳控写」日本林制史調査資料)。
宝永二年(一七〇五)の雄勝郡村々御黒印高牒(秋田県庁蔵)によれば、高は本田二二九石一斗五升三合、新田一〇三石四升五合、合計三三二石一斗九升八合(当高三五三石九斗七升一合)。享保八年(一七二三)の雄勝郡郡村本村支村御高共調帳(秋田県庁蔵)では、当高は変わらず、家数は一七軒。
川井村
かわいむら
川井村
かわいむら
- 山形県:米沢市
- 川井村
天文二二年の晴宗公采地下賜録によれば、屋代庄川井のうちを、小簗川大炊助が「松のき在け」、竹田彦七が佐藤大炊助より買地の「ひの口」三〇〇刈、「かうや」一千刈、「田の下」切田四〇〇刈、「かうつた在家」のうち「ほんかうのいとしり」と切田五〇〇刈を安堵された。
川井村
かわいむら
川井村
かわいむら
川井村
かわいむら
- 岩手県:下閉伊郡
- 川井村
下閉伊郡の南西に位置し、四周とくに北・西・南は北上高地の主峰
川井村
かわいむら
東は
正保国絵図に「川井村」とある。田園簿では四五二石余、うち田二二四石余、畑二二八石余、幕府直轄領・旗本鈴木・倉林・駒井の四給で、直轄領は萱野役として塩六八俵を納めている。元禄郷帳では川井村・下川井村・上川井村の三ヵ村と上川井村の枝郷
川井村
かわいむら
川井村
かわいむら
川井村
かわいむら
川井村
かわいむら
- 愛知県:岩倉市
- 川井村
北は
小牧代官所支配下村。高八九九石余のうち八一一石余は藩士一八人の給知。田は三四町五反四畝余、畑は三四町四反三畝余。その他新田高請二三石余がある。寛文一一年(一六七一)の戸数一〇五・人数五〇五。「徇行記」は「田面ハ幼川ノ水潦泛溢スル事アリテ田畝敗傷シ、又旱リニハ用水乏シク水旱ノ害アリテ貧村ナリ、サレハ細民ハカリニテ村立アシヽ、農業ノミヲ以テ生産トス」と記す。
川井村
かわいむら
北流する
江戸時代初期は独立村であったが、「延宝四辰年増沢村加郷被仰付、品々迷惑ニ付元禄六酉年元形一村立奉願上候」とあり、元禄八年(一六九五)「下杉村枝郷」とみえながら(桜庭文書)、享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」や寛政六年(一七九四)の六郡惣高村附帳では独立村と記載され、寄郷・枝郷を繰り返した模様である。
川井村
かわいむら
川井村
かわいむら
柿崎川の右岸に位置し、西は対岸の
川井村
かわいむら
川井村
かわいむら
川井村
かわいむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報