香川県中央部、瀬戸内海に面した港湾都市。県庁所在地。1890年(明治23)市制施行。1914年(大正3)香川郡宮脇(みやわき)村、1921年同郡東浜、栗林(りつりん)の2村、1940年(昭和15)同郡鷺田(さぎた)、太田の2村、木田郡屋島(やしま)町と古高松(ふるたかまつ)、木太(きた)の2村、1956年香川郡仏生山(ぶっしょうざん)、香西(こうざい)の2町と一宮(いちのみや)、多肥(たひ)、川岡、円座(えんざ)、檀紙(だんし)、弦打(つるうち)、上笠居(かみかさい)、下笠居、雌雄島(しゆうじま)の9村、木田郡前田、川添(かわぞえ)、林、三谷(みたに)の4村、1966年木田郡山田町を編入し、高松平野のほとんどを市域に収めた。1999年(平成11)中核市に移行。2005年(平成17)塩江(しおのえ)、2006年庵治(あじ)、香川、香南(こうなん)、国分寺(こくぶんじ)、牟礼(むれ)の5町を編入。高松平野の東部には屋島、西部には五色台(ごしきだい)(国分台(こくぶだい))の開析溶岩台地があり、瀬戸内海の女木(めぎ)島、男木(おぎ)島、大槌(おおづち)島の南半なども市域に含まれる。高松平野は香東(こうとう)川を中心に、春日(かすが)川、御坊(ごぼう)川、新(しん)川などの河川のつくった扇状地状三角州で、かつては高松市街の中央を香東川支流が流れ洪水を繰り返した。17世紀前半に高松藩(生駒(いこま)氏)の西島八兵衛(はちべえ)(1596―1680/1682)(津藩藤堂家から派遣)の努力により、香東川の現流路への固定化が成功した。現在も中央通り一帯は砂礫(されき)層で、地下水も質・量ともによく、旧河床跡を示している。
面積375.42平方キロメートル、人口41万7496(2020)。なお明治末の人口は約4万6000であった。
[坂口良昭]
現在の古高松一帯は平安初期の高松郷の地。1587年(天正15)生駒親正(ちかまさ)(1526―1603)が讃岐(さぬき)一国の領主として入封、1588~1590年に箆(野)原荘(のはらのしょう)の海に臨んだ地に城を築き高松城(玉藻城(たまもじょう))と名づけた。高松城は全国でも珍しい水城で、三重の堀があり、堀内に重臣の屋敷、堀外の西側に侍屋敷、東側と南側に町屋が置かれた。城は讃岐のほぼ中央にあり、その後の高松の発展を考えると生駒氏の立地選定は正しかったといえる。第二次世界大戦で市街の80%が爆撃で焼失、戦災復興計画で近代都市化したが、基本的土地利用は城下町当時のままである。生駒氏は御家(おいえ)騒動のため1640年(寛永17)出羽(でわ)国矢島1万石に移され、1642年に常陸(ひたち)から松平氏が入封、明治維新まで東讃12万石の城下として栄えた。
[坂口良昭]
1910年(明治43)岡山県玉野(たまの)市の宇野駅と高松市の高松駅との間を結ぶ国鉄(現、JR)の鉄道連絡船である宇高(うこう)連絡船が就航、高松港は四国の玄関口となった。鉄道の敷設もすこしずつ伸展したが、トンネル工事の遅れなどのため他の3県都と結ばれたのは昭和になってからで、予讃線により松山市まで通じたのが1927年(昭和2)、高徳線により徳島市、土讃線により高知市まで通じたのは1935年である。私鉄は高松琴平(ことひら)電気鉄道の志度(しど)線、長尾(ながお)線がさぬき市まで、琴平線が琴平町までそれぞれ通じている。道路は国道11号、30号、32号、193号、377号が通じ、高松自動車道の高松西、高松中央などのインターチェンジがある。1988年瀬戸大橋開通により、JR宇高連絡線は廃止されたが、本州との連絡は便利になり、人、物の交流が進んでいる。1989年、香南町に開港した新高松空港(現、高松空港)は羽田、成田、那覇、ソウル、上海、香港、台北への路線がある。第二次世界大戦後、中央官庁の出先機関が高松市に置かれ、続いて日本経済の高度成長とともに大企業の四国支店が進出し、四国全体の中枢管理都市に発展した。ビルが林立し、四国第一の近代的都市となっている。四国全体の卸売販売額の約3分の1を占めるのも支店の多いことによる。近代工業は特徴的なものはないが、在来工業として製紙業と漆器工業があり、蒟醤(きんま)などの香川漆器は国の伝統的工芸品に指定されている。林町(旧、高松空港跡)のインテリジェントパークには県立図書館や公・民の研究施設が集中、総合コンベンション施設サンメッセ香川もある。また浜ノ町(旧、宇高連絡船桟橋跡)のサンポート高松(港頭地区再開発)は1991年着工、2004年3月にオープンした。高松港と小豆(しょうど)島土庄(とのしょう)港、高松港と直島宮浦(みやのうら)港、高松東港と神戸港・新港フェリーターミナルを結ぶなどの旅客船航路がある。
[坂口良昭]
高松城跡(国指定史跡)は玉藻公園として開放されている。北之丸月見櫓(つきみやぐら)などは国指定重要文化財。特別名勝栗林公園は藩主生駒氏、松平氏が造園した池泉回遊式庭園。栗林公園の西方には溶岩台地の石清尾山(いわせおやま)があり、北麓(ろく)に京都の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)から勧請(かんじょう)した石清尾(いわせを)八幡宮が鎮座する。石清尾山一帯の積石塚古墳群(石清尾山古墳群)は国の史跡に指定されている。源平の合戦で名高い屋島(292メートル)は典型的な開析溶岩台地として知られ国指定史跡・天然記念物。台地上には四国八十八か所第84番札所の屋島寺がある。屋島の南麓には四国各地から移築した民家・茶堂・砂糖しめ小屋などのある四国民家博物館(四国村)がある。このほか四国八十八か所第80番札所国分寺、82番根香(ねごろ)寺、83番一宮寺、85番八栗(やくり)寺、松平氏の菩提(ぼだい)寺法然寺、庄屋(しょうや)を勤めた小比賀(おびか)家住宅(国指定重要文化財)、県立讃岐民芸館などがある。県立歴史博物館を中心として2008年に再編された県立ミュージアムは、分館として香川県文化会館、県立瀬戸内海歴史民俗資料館を有し、香川の文化的拠点となっている。屋島、五色台、男木島、女木島などは瀬戸内海国立公園域。
市内の観光地のなかで、過去最多の観光客を集めたのは、1972年(昭和47)、山陽新幹線の終点が岡山駅であったときの屋島で、年間246万人であった。ついで、瀬戸大橋が開通した1988年の栗林公園が218万人である。本州四国連絡橋の神戸―鳴門(なると)ルート、尾道(おのみち)―今治(いまばり)ルートが開通したことで、観光客獲得に力が入れられている。
[坂口良昭]
『『新修高松市史』全38巻(1964~1969・高松市)』▽『『高松の歴史と風土』(1979・高松市立図書館)』▽『『高松市史』(1986・臨川書店)』
石川県中央部、河北郡(かほくぐん)にあった旧町名(高松町(まち))。現在は、かほく市の北部を占める一地区。旧高松町は、1922年(大正11)町制施行。1954年(昭和29)羽咋(はくい)郡南大海(みなみおおみ)村と合併。2004年(平成16)七塚(ななつか)町、宇ノ気(うのけ)町と合併、かほく市となる。東は宝達(ほうだつ)丘陵、西は日本海に面し砂丘が発達する。海岸に沿ってJR七尾線(ななおせん)、国道159号、のと里山海道が通ずる。古墳、古窯跡が多い。近世は能登街道の宿場町で漁業も盛んであった。砂丘地ではブドウ、カキ(紋平柿)を産し、ゴム入り組紐(くみひも)、ゴム入り細幅織物の産地として有名。海水浴場もある。
[矢ヶ崎孝雄]
『『石川県高松町史』(1974・高松町)』
岡山市北区南西部の一地区。旧吉備(きび)郡高松町。1582年(天正10)に羽柴(はしば)(豊臣(とよとみ))秀吉が高松城を水攻めにした地として知られる。高松城跡は国の史跡に、高松城水攻め鳴谷川(なるたにがわ)遺跡は県の史跡に指定されている。また、高松城址は歴史公園として整備され、資料館もつくられている。このほか付近には造山(つくりやま)古墳(国史跡)、吉備津神社、最上(さいじょう)(高松)稲荷(いなり)などの社寺や史跡が多く、吉備路風土記(ふどき)の丘県立自然公園と吉備史跡県立自然公園の東部を形成する。宮内(みやうち)は吉備津神社の鳥居前町、板倉は山陽道の宿場町である。国道180号、429号が通じ、JR吉備線の備中高松駅がある。
[由比浜省吾]
香川県中央部にある県庁所在都市。2005年9月旧高松市が塩江(しおのえ)町を編入,さらに06年1月庵治(あじ),香川(かがわ),香南(こうなん),国分寺(こくぶんじ),牟礼(むれ)の5町を編入して成立した。人口41万9429(2010)。
高松市北東端の旧町。旧木田郡所属。人口6121(2005)。庵治半島先端部を占め,南端には瀬戸内海国立公園に属する五剣山がある。山地が広く,西側にわずかに開けた平野部に集落が集中する。山地ではミカン,ブドウ栽培が行われる。古くから町の基幹産業であった漁業は,県下屈指の漁港と水揚高を誇っており,水産加工業も盛んであるが,沿岸漁業の不振から養殖漁業に転換しつつある。南西部では庵治石を加工する石材業が盛んで,1981年に完成した庵治臨海造成地では水産加工業,石材業が操業中。源平合戦の時の平氏軍船の隠し場所と伝えられる船隠は,海水浴場,レジャーセンターとなっている。ほかに江ノ浜海水浴場,庵治温泉(含食塩硫黄泉,18~20℃)があり,沖合の大島に国立ハンセン病療養所青松園がある。
高松市中部の旧町。旧香川郡所属。人口2万4220(2005)。北部は讃岐平野の南端を占め,北流する香東(ごうとう)川により形成された扇状地で,南部は讃岐山脈北麓の丘陵地帯。中央部を国道193号線(塩江街道)が縦貫する。古くから溜池灌漑による純農村地帯であったが,現在は北接する旧高松市への通勤者が多い。農業は従来からの米,麦に養鶏,イチゴ,花卉,野菜,果樹を取り入れた集約的多角経営となっている。高塚山の山頂にひょうげ祭で知られる水波売(みずはめ)神社がある。
高松市西部の旧町。旧香川郡所属。人口7991(2005)。北部は讃岐平野の南端に位置し,南部は讃岐山脈北麓の丘陵地帯。北部は北流する香東川により形成された扇状地で,古くから溜池灌漑による米作を中心とした純農村地帯である。近年は米に果樹,酪農を取り入れた複合経営となり,讃岐富有ガキの中心産地の一つである。北接する旧高松市への通勤者が多い。南端の丘陵地帯には1989年に高松空港が完成した。
高松市北西部の旧町。旧綾歌郡所属。人口2万4028(2005)。北部と南部は丘陵で囲まれ,中央部を本津川が北東流し,沖積低地を形成する。JR予讃線,国道11号線が中央部を横断する。溜池灌漑による農業中心の町であったが,旧高松市と坂出市の間に位置するため住宅地化が著しい。農業は米,麦中心から,盆栽,施設園芸,果樹,蔬菜,花卉などの都市近郊農業に移行している。四国八十八ヵ所第80番札所白牛山国分寺は本堂,千手観音立像,銅鐘が重要文化財に指定されており,境内には讃岐国分寺跡(特史)の33個の巨大な礎石が残る。北東約2kmには国分尼寺跡(史)がある。
高松市南部の旧町。旧香川郡所属。人口3640(2000)。讃岐山脈の最高峰竜王山や大滝山の北斜面,香東川の源流部に位置し,町域の大半は山林で占められる。集落は徳島県穴吹町へ通じる塩江街道(国道193号線)沿いに発達,中心は安原下(やすはらしも)である。花卉,茶,抑制野菜の栽培や,淡水魚養殖が盛んで,自然休養村に指定されてからは観光農業の振興も図られている。旧高松市の奥座敷といわれる塩江温泉(単純硫化水素泉,18℃),讃岐平野の用水・洪水調節用の内場(ないば)ダム(1953完成)がある。
執筆者:赤池 享一
高松市中北部の旧市で,瀬戸内海に面する。1890年市制。人口33万2865(2000)。讃岐平野東部にあたる高松平野のほぼ全域を占め,香東川河口東岸に発達する中心市街地は,16世紀末生駒親正が城を築き,またのちに松平頼重が高松藩12万石の藩主となって入封して以来,城下町として栄えた。明治維新後1888年に香川県が愛媛県から分離して成立するまで曲折を経たが,それ以後県都として発展した。1910年国鉄(現JR)宇高連絡船が就航してからは,それまでの徳島県鳴門にかわって四国の玄関口となった。他県都とは27年松山市と予讃線,35年徳島市と高徳線,高知市と土讃線で結ばれた。また92年高松自動車道善通寺~高松間が開通した(なお2003年全線開通)。第2次大戦の空襲で全焼したが,戦後中央官庁の出先機関が集中して四国行政の中核となり,さらに高度経済成長期には中央の会社の支店が多く進出した。産業別就業人口の割合(1990)では第1次産業4.5%,第2次産業24%,第3次産業71.5%で消費都市の傾向を示し,卸販売総額でも四国地方の中心をなしている。近代工業はふるわず,製造品出荷額(1995)では県の19%にすぎないが,その中では飲料・飼料,一般機械,金属の比率が高く,古くからの手すき和紙の伝統をうけつぐ製紙業は不振である。在来工業では近世からの讃岐漆器が高級品として知られる。市域には五色台(ごしきだい),屋島,石清尾(いわせお)山などの開析溶岩台地が多く,石清尾山東麓にある栗林(りつりん)公園は生駒・松平両家の別邸を回遊式庭園として明治末~大正初めに造成したもので,特別名勝に指定されている。
執筆者:坂口 良昭
瀬戸内海交通の要地でもある高松の地名の初出は10世紀前半に成立した《和名抄》で,山田郡高松郷とある。1335年(建武2)には讃岐守護船木頼重が高松城に拠っていた。豊臣秀吉から1587年(天正15)讃岐一国の大名に封ぜられた生駒親正は高松郷に近接する香川郡の野原荘に城を築いて高松城と称した。以後それまでの高松を古高松という。城は海浜を埋め瀬戸内海に接して築城された。城下町は,北端を海に面して海水を利用した三重の濠をもつ城域を設け,中濠と外濠の間に重臣屋敷,外濠の西に侍屋敷,南に町家,東に舸子町を置いた。侍屋敷は162軒,町家は1364軒で百間町,大工町,磨屋町,紺屋町などの町があり,町家の南のはずれには寺を配置した。寛永(1624-44)の初めごろに城下へ流れ込んでいた香東川の本流を城下西部の支流(現,香東川)に変える工事が西島八兵衛によって行われたが,これは高松城下町の発展にとって画期的なことであった。1642年の町家の人口は1万2943人となった。
生駒氏が御家騒動によって改易されてのち,1642年入封して東讃岐12万石を支配した松平頼重は城下町の拡充をはかるとともに,河川から導水し,亀井戸,大井戸,今井戸などを水源とするなど,城下の上水道を整備した。その後城下町は南東へ漸次広がっていき,1838年(天保9)には町数は49町で,城下町域は東西約20町,南北約11町となり,家中屋敷は人口5273人,町家は2万0314人であった。商船の船着場は城下東の東浜にあったが,1801年(享和1)に藩は東浜の海岸を埋め立てて,新地を築いて新湊町とした。そしてここに川口番所を設置し,問屋商人らを多数移住させて他国商品の出入りをいっそう活発にした。この新湊町には町年寄1人,組頭2人を置いた。1748年(寛延1)に城下町西通町の柏野屋市兵衛が高松藩領内生産の綿を取り扱う総問屋になったが,翌年には綿運上に反対する打ちこわしが起こり,襲撃にあっている。1835年には当時高松藩の代表的産物となった砂糖の積出しの監視を行う砂糖会所の引請人に塩屋町の三木屋と百間町の坂本屋がなっている。
また高松城下は金毘羅参詣や四国遍路の上陸地でもあった。明治維新に際して高松藩は一時朝敵となり,新政府側の土佐,丸亀,多度津の各藩軍が高松城下に進駐した。
→高松藩
執筆者:木原 溥幸
高松市北東部の旧町。旧木田郡所属。人口1万7863(2005)。庵治半島の基部に位置し,北に五剣山,南に低い山地があり,東は志度湾に臨む。中央部は扇状に開けた低地で,JR高徳線,高松琴平電鉄志度線,国道11号線が通じ,旧高松市に東接して都市化が進んでいる。五剣山西麓から産する庵治石を加工する石材業,土管,煉瓦,瓦,コンクリートブロックなどを生産する窯業などの地場産業があり,臨海土地造成事業により石材工業団地,陶管工業団地が建設された。瀬戸内海国立公園に属する五剣山には四国八十八ヵ所85番札所八栗(やくり)寺があり,ケーブルカーが通じる。西部の旧高松市との間の入江は壇ノ浦で,六万寺,洲崎寺をはじめとして源平合戦にちなむ史跡が多い。
執筆者:赤池 享一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
… 南北朝・室町時代,讃岐は細川氏嫡流,京兆(けいちよう)家の根本分国として重要な政治的役割をになった。《太平記》には1335年(建武2)足利尊氏の西走に際し,細川和氏,頼春,顕氏,定禅(じようぜん)らを西国諸国に配置して再挙にそなえたことが記され,このうち定禅が讃岐鷺田(さぎた)荘(現,高松市)で挙兵し諸勢力を糾合したことが伝えられている。さらに建武年間以降,顕氏,繁氏が讃岐守護に任ぜられ,62年(正平17∥貞治1)細川頼之の補任以後は代々京兆家に世襲され室町幕府崩壊期におよんだ。…
※「高松」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新