朝日日本歴史人物事典 「後藤基綱」の解説
後藤基綱
生年:養和1(1181)
鎌倉幕府4代将軍藤原頼経の側近で,将軍家の和歌会に席を連ねた歌人。後藤基清の子。承久の乱(1221)では幕府方として戦い,京方についた父基清を幕府の命令によって斬首した。嘉禄1(1225)年評定衆となる。将軍頼経の政所では,保奉行人を管理して鎌倉の市政に携わった。また,恩賞奉行も兼務。越前国守護に補任され,以降鎌倉幕府滅亡まで後藤氏がこの職に任ぜられた。嘉禎2(1236)年,使節として上洛し,南都の嗷訴を鎮めた。同年,佐渡守,翌3年玄蕃頭。寛元4(1246)年6月,宮騒動に連座して評定衆を解任された。その後,建長4(1252)年4月には,引付衆に任ぜられた。<参考文献>『関東評定伝』
(永井晋)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報