後藤基綱(読み)ごとう・もとつな

朝日日本歴史人物事典 「後藤基綱」の解説

後藤基綱

没年:康元1.11.28(1256.12.16)
生年:養和1(1181)
鎌倉幕府4代将軍藤原頼経の側近で,将軍家の和歌会に席を連ねた歌人後藤基清の子。承久の乱(1221)では幕府方として戦い,京方についた父基清を幕府の命令によって斬首した。嘉禄1(1225)年評定衆となる。将軍頼経の政所では,保奉行人を管理して鎌倉の市政に携わった。また,恩賞奉行兼務。越前国守護に補任され,以降鎌倉幕府滅亡まで後藤氏がこの職に任ぜられた。嘉禎2(1236)年,使節として上洛し,南都の嗷訴を鎮めた。同年,佐渡守,翌3年玄蕃頭。寛元4(1246)年6月,宮騒動に連座して評定衆を解任された。その後,建長4(1252)年4月には,引付衆に任ぜられた。<参考文献>『関東評定伝

(永井晋)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「後藤基綱」の解説

後藤基綱 ごとう-もとつな

1181-1256 鎌倉時代武将
養和元年生まれ。後藤基清の子。鎌倉幕府につかえ,承久(じょうきゅう)の乱で後鳥羽(ごとば)上皇側についた父の首をはねる。嘉禄(かろく)元年初代評定衆のひとりとなり,のち越前(えちぜん)守護。寛元4年評定衆を解任され,建長4年引付衆となった。康元元年11月28日死去。76歳。

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