ドイツ史のなかで,シュタウフェン朝の没落からハプスブルク家ルドルフ1世の登位(1273)にいたる,神聖ローマ皇帝不在の時期を指す呼称。開始時期については二,三の異説がある。すでにその状況は,1245年,教皇派諸侯によるフリードリヒ2世帝廃位宣言とそれに続く対立ドイツ国王チューリンゲン方伯ハインリヒ・ラスペ(在位1246-47)およびウィルヘルム・フォン・ホラント(在位1247-56)の出現した時代に端を発していたが,56年のウィルヘルムの死をもって大空位期に入るとするのが通説である。ただしフリードリヒ2世の死去(1250),あるいはその後継者コンラート4世の死によるシュタウフェン朝の断絶(1254)をもって画期とする説明もある。この時期には,イングランド王ヘンリー3世の弟リチャード・オブ・コーンウォール(教皇派)とカスティリャ王アルフォンソ10世(シュタウフェン派)が相対立するドイツ国王に選出されているが,ともに外国人としてドイツの事情に関心はなく事実上の空位が続いたのであった。シラーも〈皇帝なき恐怖の時代〉と名付けたというこの時期の最大の特徴は,もともと分立傾向にあった諸侯の地位がきわめて強化されたことであり,帝国の統一という観点からすれば最悪の解体期であった。ルドルフ1世の選出による大空位期の終焉後も諸領邦の分立はやまず,むしろ固定化されてゆくこととなる。皇帝を中心とするキリスト教的普遍世界の理念は崩壊し,以後の国王は家門勢力の強化に没頭する。
執筆者:魚住 昌良
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ホーエンシュタウフェン朝の没落から、ハプスブルク家のルードルフ1世の即位まで、ドイツにおいて名目上の国王のみで実質的支配者が存在しなかった時期(1256~73)。1254年、国王コンラート4世KonradⅣ(在位1250~54)の死によりホーエンシュタウフェン朝は断絶し、彼の生前から対立国王に選出されていたウィルヘルム・フォン・ホラントWilhelm von Holland(1227/28―56、在位1247~56)も1256年に死亡した。この混乱のなかで、イギリス、フランスなど諸外国は、ドイツの王位を獲得すべくドイツ国内の聖俗諸侯に働きかけ、その結果、翌57年、ケルン、マインツ両大司教、ライン宮廷伯、ベーメン王が、イギリス国王ヘンリー3世の弟コーンウォール伯リチャードを、他方トリール大司教、ザクセン大公、ブランデンブルク辺境伯、ベーメン王(二重投票)はカスティーリャ王アルフォンソ10世を、それぞれドイツ国王に選んだ。だが2人ともイギリス国王とフランス国王の傀儡(かいらい)にすぎず、ほとんどドイツに姿をみせることもなかった。1272年リチャードの死とともに、このような変則状態を克服しようとする動きがおこり、二重選挙を避けるため、候補者の選定をライン宮廷伯に一任した。その結果ハプスブルク家のルードルフ1世が国王に選ばれて、大空位時代は終わった。
[平城照介]
『林健太郎編『ドイツ史』新版(1977・山川出版社)』▽『堀米庸三著『西洋中世世界の崩壊』(1958・岩波書店)』
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1254(56)~73年間のドイツ王=神聖ローマ皇帝位が実質的に空位となっていた時期。コンラート4世が没し,ホーエンシュタウフェン朝が絶える(54年)と,彼への対立王だったオランダ伯ヴィルヘルムが帝位についた。さらにその死(56年)後の選挙はリチャード・オヴ・コーンウォールとカスティリャ王アルフォンソの二重選挙に終わり,両者ともにドイツを実質的に支配できなかった。この状態は73年,ハプスブルク家のルードルフ1世が国王に選ばれてようやく終わる。
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