大空位時代(読み)ダイクウイジダイ(英語表記)Interregnum

デジタル大辞泉 「大空位時代」の意味・読み・例文・類語

だい‐くういじだい〔‐クウヰジダイ〕【大空位時代】

神聖ローマ帝国皇帝位が実質的に空位であった時代。1254年(または1256年)のホーエンシュタウフェン朝断絶から、1273年のハプスブルク朝の成立まで。

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精選版 日本国語大辞典 「大空位時代」の意味・読み・例文・類語

だい‐くういじだい‥クウヰジダイ【大空位時代】

  1. 一二五四年(または五六年)から一二七三年まで、神聖ローマ皇帝の帝位が実質上空位となった時代。シュタウフェン家のコンラート四世の死後ハプスブルク家のルドルフ一世の即位まで続いた。この間にドイツ領邦国家への分裂傾向は決定的となった。

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改訂新版 世界大百科事典 「大空位時代」の意味・わかりやすい解説

大空位時代 (だいくういじだい)
Interregnum

ドイツ史のなかで,シュタウフェン朝の没落からハプスブルク家ルドルフ1世の登位(1273)にいたる,神聖ローマ皇帝不在の時期を指す呼称。開始時期については二,三の異説がある。すでにその状況は,1245年,教皇派諸侯によるフリードリヒ2世帝廃位宣言とそれに続く対立ドイツ国王チューリンゲン方伯ハインリヒ・ラスペ(在位1246-47)およびウィルヘルム・フォン・ホラント(在位1247-56)の出現した時代に端を発していたが,56年のウィルヘルムの死をもって大空位期に入るとするのが通説である。ただしフリードリヒ2世の死去(1250),あるいはその後継者コンラート4世の死によるシュタウフェン朝の断絶(1254)をもって画期とする説明もある。この時期には,イングランド王ヘンリー3世の弟リチャード・オブ・コーンウォール(教皇派)とカスティリャ王アルフォンソ10世(シュタウフェン派)が相対立するドイツ国王に選出されているが,ともに外国人としてドイツの事情に関心はなく事実上の空位が続いたのであった。シラーも〈皇帝なき恐怖の時代〉と名付けたというこの時期の最大の特徴は,もともと分立傾向にあった諸侯の地位がきわめて強化されたことであり,帝国の統一という観点からすれば最悪の解体期であった。ルドルフ1世の選出による大空位期の終焉後も諸領邦の分立はやまず,むしろ固定化されてゆくこととなる。皇帝を中心とするキリスト教的普遍世界の理念は崩壊し,以後の国王は家門勢力の強化に没頭する。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大空位時代」の意味・わかりやすい解説

大空位時代
だいくういじだい
Interregnum ラテン語

ホーエンシュタウフェン朝の没落から、ハプスブルク家のルードルフ1世の即位まで、ドイツにおいて名目上の国王のみで実質的支配者が存在しなかった時期(1256~73)。1254年、国王コンラート4世KonradⅣ(在位1250~54)の死によりホーエンシュタウフェン朝は断絶し、彼の生前から対立国王に選出されていたウィルヘルム・フォン・ホラントWilhelm von Holland(1227/28―56、在位1247~56)も1256年に死亡した。この混乱のなかで、イギリス、フランスなど諸外国は、ドイツの王位を獲得すべくドイツ国内の聖俗諸侯に働きかけ、その結果、翌57年、ケルン、マインツ両大司教、ライン宮廷伯、ベーメン王が、イギリス国王ヘンリー3世の弟コーンウォール伯リチャードを、他方トリール大司教、ザクセン大公、ブランデンブルク辺境伯、ベーメン王(二重投票)はカスティーリャ王アルフォンソ10世を、それぞれドイツ国王に選んだ。だが2人ともイギリス国王とフランス国王の傀儡(かいらい)にすぎず、ほとんどドイツに姿をみせることもなかった。1272年リチャードの死とともに、このような変則状態を克服しようとする動きがおこり、二重選挙を避けるため、候補者の選定をライン宮廷伯に一任した。その結果ハプスブルク家のルードルフ1世が国王に選ばれて、大空位時代は終わった。

[平城照介]

『林健太郎編『ドイツ史』新版(1977・山川出版社)』『堀米庸三著『西洋中世世界の崩壊』(1958・岩波書店)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大空位時代」の意味・わかりやすい解説

大空位時代
だいくういじだい
Interregnum

神聖ローマ皇帝 (ドイツ王) の事実上の空位時代 (1254/6~73) 。 Interregnumという語は,ローマ王政時代に,王の死後その後継者が選出されるまでの間,中間王 Interrexが任命されて統治にあたった期間の政治体制を意味したが,歴史上では神聖ローマ帝国の空位時代をさす。中世後半のドイツでは皇帝権力が衰えた反面,諸侯の権力は増大し,1250年ホーエンシュタウフェン朝の皇帝フリードリヒ2世が死んだあと,子のコンラート4世が帝位 (王位) を継いだが,47年対立皇帝 (王) としてウィルヘルム・フォン・ホラントも帝位についていた。両者が没したあと,皇帝 (王) が濫立して帝位は安定しなかった。大空位時代はコンラートの没した 54年か,ウィルヘルムの没した 56年から始ったとされ,73年ハプスブルク家のルドルフ1世が皇帝に選ばれてようやく帝権が安定し大空位時代が終った。この事件は,形式上最高の栄誉をになった神聖ローマ皇帝の政治的実権がいかに微弱であったかを示すとともに,ドイツにおいていかに諸侯の地方分権が進んだかを象徴している。

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百科事典マイペディア 「大空位時代」の意味・わかりやすい解説

大空位時代【だいくういじだい】

ドイツ史上,1254年(または1256年)から1273年の間神聖ローマ皇帝の位が実質的に空位だった時代。1254年シュタウフェン朝が断絶。オランダ伯ウィルヘルムが即位したが1256年死亡。その後英国王弟リチャードとカスティリャ王アルフォンソ10世が並立したが英仏の傀儡(かいらい)にすぎず,ハプスブルク家のルドルフ1世の即位で終息。
→関連項目アルフォンソ[10世]ハイルブロンライン都市同盟

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「大空位時代」の解説

大空位時代(だいくういじだい)
Interregnum

1254(56)~73年間のドイツ王=神聖ローマ皇帝位が実質的に空位となっていた時期。コンラート4世が没し,ホーエンシュタウフェン朝が絶える(54年)と,彼への対立王だったオランダ伯ヴィルヘルムが帝位についた。さらにその死(56年)後の選挙はリチャード・オヴ・コーンウォールとカスティリャ王アルフォンソの二重選挙に終わり,両者ともにドイツを実質的に支配できなかった。この状態は73年,ハプスブルク家ルードルフ1世が国王に選ばれてようやく終わる。

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旺文社世界史事典 三訂版 「大空位時代」の解説

大空位時代
だいくういじだい
Interregnum

神聖ローマ帝国で皇帝に実権がなく,実質的に空位だった時代(1254〜73)
コンラート4世の死後,シュタウフェン朝が断絶し,帝権の弱いことを願う諸侯が2派に分かれて,リチャードとアルフォンソを選出した。しかし,2人ともドイツに無関心で,1273年ハプスブルク家のルドルフ1世が選ばれるまで,事実上空位に等しかった。

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