忽那重清(読み)くつな・しげきよ

朝日日本歴史人物事典 「忽那重清」の解説

忽那重清

生年生没年不詳
鎌倉・南北朝時代の武将。重義の子で義範の兄。通称弥次郎,のち次郎左衛門尉。忽那氏瀬戸内の要衝伊予国忽那島(愛媛県温泉郡中島町)を本拠とする在地領主で,鎌倉御家人の地位を得ていた。元弘1(1331)年,後醍醐天皇が討幕の兵を挙げると重清はこれに応じ,伊予守護宇都宮氏の討伐に加わるとともに信濃国(長野県),京都などでも天皇方として戦った。のちに足利尊氏が九州から東上してくると足利方に転じ,京都,安芸国(広島県)などに出陣し功績を上げた。その広範な活動の背景には,忽那一族の水軍力があったものと推測される。晩年は,南朝方の弟義範に圧倒されて表舞台から姿を消した。<参考文献>景浦勉『忽那家文書』

(山内譲)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「忽那重清」の解説

忽那重清 くつな-しげきよ

?-? 鎌倉-南北朝時代の武将。
忽那重義長男。伊予(いよ)(愛媛県)忽那諸島を本拠とする水軍。後醍醐(ごだいご)天皇に呼応して挙兵。足利尊氏が建武(けんむ)政権に反すると,足利軍の追討にあたる。建武3=延元元年(1336)尊氏が九州から京都にむかうと足利方に転じ,京都,安芸(あき)などでたたかった。通称は弥次郎,次郎左衛門尉。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の忽那重清の言及

【軍忠状】より

…さらに敵の頸(くび)をいくつ取ったかを具体的に記した〈分取頸注文〉,味方が何人手負(ておい)(負傷)したかを書き記した〈手負注文〉などと称せられる文書の出現をみた。なお一連の軍忠状で大将側の証判が加えられた初見は1333年(元弘3)3月28日付の伊予国御家人忽那重清のものである(《忽那文書》所収)。軍功書【高橋 正彦】。…

※「忽那重清」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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