朝日日本歴史人物事典 「悪路王」の解説
悪路王
平安前期,坂上田村麻呂や藤原利仁に滅ぼされたと伝えられる人物。蝦夷の族長阿弖流為(阿弖利為とも)の訛ったものとの見方もある。達谷窟(岩手県平泉町)を巣窟としたといい,これを討った田村麻呂は,そこに京の鞍馬寺を模して9間4面の精舎を建立し,多聞天の像を安置したと伝える。文治5(1189)年9月,源頼朝は平泉を攻撃し藤原泰衡らを討滅したあとこの窟に立ち寄り,田村麻呂の武勇譚を聞いている(『吾妻鏡』)。いま茨城県桂村の鹿島神社と同県鹿島町にある鹿島神宮には田村麻呂が納めたという悪路王の首級(木造)が伝えられており,前者は元禄年間(1688~1704),徳川光圀が修理したもの。これらの事実は,蝦夷社会に広がった鹿島神に悪路王の怨霊の慰撫が求められていたことを示すものであろう。
(瀧浪貞子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報