奈良末から平安初頭の蝦夷(えみし)の族長。大墓公阿弖利為(たいものきみあてりい)ともいう。789年(延暦8)に胆沢(いさわ)(岩手県南部)を対象とする朝廷の征夷軍の侵攻に対し、強力な抵抗戦を指導して多大の損害を与えた。しかし、征夷大将軍坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)による胆沢攻略戦の成功に伴い、802年4月に盤具公母礼(ばんぐのきみもれ)および同族500人とともに降伏した。田村麻呂は助命を主張するが、同年8月、母礼とともに河内国(かわちのくに)杜山(もりやま)(椙山(すぎやま)の誤りとし大阪府枚方(ひらかた)市に比定する説もある)で処刑された。田村麻呂伝説に、田村麻呂に滅ぼされた蝦夷の族長として登場する「賊主悪路(あくろ)王」(『吾妻鏡(あずまかがみ)』文治5年条など)が、阿弖流為と考えられている。
[熊田亮介]
『神英雄著「蝦夷梟帥阿弖利為・母礼斬殺地に関する一考察」(日野昭先生還暦記念会編『歴史と伝承』所収・1988・永田文昌堂)』▽『今泉隆雄著「三人の蝦夷」(門脇禎二編『古代日本国家の展開 上』所収・1995・思文閣出版)』▽『新野直吉著『田村麻呂と阿弖流為』(2007・吉川弘文館)』
(瀧浪貞子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
?~802.8.13
大墓公(たものきみ)阿弖利為とも。8世紀後半~9世紀初頭の陸奥国胆沢地方の蝦夷(えみし)の首長。789年(延暦8)征東大将軍紀古佐美(きのこさみ)以下の政府軍を迎え討ち勝利した。しかし征夷大将軍となった坂上田村麻呂が801年に征討を始めると,翌年4月,盤具公母礼(いわぐのきみもれ)とともに500余人を率いて降伏した。7月,京に送られ,田村麻呂の助命嘆願の甲斐なく,8月に河内国杜(椙)山で斬首された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…その後も和気清麻呂らを中心に造営事業が続けられた。次に後者は,光仁朝末期の780年(宝亀11)陸奥国上治郡の大領伊治呰麻呂(いじのあざまろ)が反乱を起こして以来,大伴家持,紀古佐美(きのこさみ)らに率いられる征討軍は鎮定の功をあげることができず,ことに789年には蝦夷の将阿弖流為(あてるい)のために1000人余の死者を出して大敗するありさまであった。しかし天皇は渡来人系の坂上田村麻呂を抜擢して征夷大将軍とし,その巧妙な戦略によって801年(延暦20)奥地の胆沢地方まで平定できた。…
※「阿弖流為」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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