日本歴史地名大系 「戸奈良村」の解説
戸奈良村
とならむら
享保一〇年(一七二五)の村鑑覚書(石井五一郎文書)によれば、元和三年(一六一七)の小山藩領のとき山は峰切、川原は川切、田畑野通りは大道切という具合に郷割が行われ、翌四年には検地がなされた。元和三年の本百姓二一・門屋百姓一一(「日光御用割付」野城勝文書)。寛永三年(一六二六)の年貢受取状(森徳次郎文書)によると米六五石余、永一一四貫を納めている。慶安郷帳では田二二一石余・畑一千二一九石余・浮役二二石余、朽木稙綱領。明暦四年(一六五八)に幕府領、寛文元年(一六六一)から上野館林藩領、天和二年(一六八二)から旗本安藤・稲生・諏訪領など旗本九氏の相給(分郷配当帳)。旗本九氏のうち岡野領は元禄一一年(一六九八)旗本松平領、中山領は正徳二年(一七一二)武蔵六浦藩領となり幕末に至る(前掲村鑑覚書、旧高旧領取調帳など)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報