戸奈良村(読み)とならむら

日本歴史地名大系 「戸奈良村」の解説

戸奈良村
とならむら

[現在地名]田沼町戸奈良

はた川と彦間ひこま川の合流地域、足尾あしお山地から平野部に出る谷口に位置。東は田沼村岩崎いわざき村、西は山形やまがた村、出流原いずるはら(現佐野市)、南は石塚いしづか(現同上)。戦国時代は佐野氏の支配下にあり、永禄一一年(一五六八)四月五日の宝衍佐野房綱朱印状(石井善太郎氏所蔵文書)に「戸奈良郷」のうち、岸本大膳亮抱分一〇貫文、戸田分一〇貫文の合計二〇貫文の地を佐野房綱が森伊豆守に与えている。天正一五年(一五八七)六月一一日の佐野氏忠定書(本光寺文書)では「戸奈良」のうち九貫五五〇文の地が本光ほんこう寺領となった。その後慶長二〇年(一六一五)一〇月二三日の本光寺領覚書(同文書)では、同寺領は三七貫六五〇文となり、ほか本光寺隠居長春庵ちようしゆんあん寺領二〇貫があった。

享保一〇年(一七二五)の村鑑覚書(石井五一郎文書)によれば、元和三年(一六一七)の小山藩領のとき山は峰切、川原は川切、田畑野通りは大道切という具合に郷割が行われ、翌四年には検地がなされた。元和三年の本百姓二一・門屋百姓一一(「日光御用割付」野城勝文書)。寛永三年(一六二六)の年貢受取状(森徳次郎文書)によると米六五石余、永一一四貫を納めている。慶安郷帳では田二二一石余・畑一千二一九石余・浮役二二石余、朽木稙綱領。明暦四年(一六五八)幕府領、寛文元年(一六六一)から上野館林藩領、天和二年(一六八二)から旗本安藤・稲生・諏訪領など旗本九氏の相給(分郷配当帳)。旗本九氏のうち岡野領は元禄一一年(一六九八)旗本松平領、中山領は正徳二年(一七一二)武蔵六浦藩領となり幕末に至る(前掲村鑑覚書、旧高旧領取調帳など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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