田沼村(読み)たぬまむら

日本歴史地名大系 「田沼村」の解説

田沼村
たぬまむら

[現在地名]田沼町田沼

はた川によって形成された扇状地の扇頂部に位置。東は栃本とちもと村、南は吉水よしみず村、西は戸奈良となら村と石塚いしづか(現佐野市)、北は戸室とむろ村。田沼宿・田沼町とも称された。地名は北方の愛宕あたご山麓一帯が湧水に恵まれ、沼地や田が開発されていたことによるという。足利家綱が愛岩山麓に住み、そのあと一族の田沼重綱が居住したという。のち田沼氏は南の下田沼しもだぬまに城館と寺(玄松寺)を移したと伝える(田沼町史)。従来五千石余であった田沼村は、元和二年(一六一六)田沼・吉水・栃本の三村に分れ、村域が確定したといわれる(「高辻記録控」一瓶塚稲荷神社蔵)。同三年の本百姓四一・門屋百姓一八(「日光御用割付」野城勝文書)。翌四年の検地帳(立川順三郎文書)によれば、田三町二反余・畑一三八町二反余、屋敷三町九反余と圧倒的に畑がちである。同検地帳には七〇名の屋敷持を含む計一三〇名余の名請人が記され、内蔵助織部などの名は旧佐野家家臣の帰農したものと思われる。

慶安郷帳によれば田三〇石余・畑一千八〇石余、朽木稙綱領。慶安二年(一六四九)幕府領、寛文元年(一六六一)上野館林藩領となり、天和二年(一六八二)旗本七氏の相給。内訳は榊原・徳永・筒井・宮城・堀田の五氏は二〇〇石の均等割、久永・村越両氏は各五八石余(分郷配当帳)。元禄一一年(一六九八)宮城知行分は松平領に代わり、幕末に至る。寛保二年(一七四二)の旗本堀田知行分の村明細帳(立川順三郎文書)によれば人数四七、用水は天水に頼るため畑が多く、葉煙草・大豆を栽培した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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