朝日日本歴史人物事典 「打它光軌」の解説
打它光軌
生年:延宝2(1674)
江戸中期の歌人。姓は「うった」とも。陸奥国中村藩(福島県相馬市)和歌師範。幼名鶴千代。通称十右衛門。号は藻虫庵,雲泉。歌人打它公軌の孫である景軌の子として京都に生まれた。和歌を中院通茂・通久に学ぶ。雲泉の名は通茂に賜ったもの。北村季吟父子ら当代一流の歌人と親しかった。同じ中院通茂門の高弟で中村藩主相馬昌胤の縁で藩に招かれ,元禄16(1703)年11月,和歌師範となって下り,禄100石20人扶持を与えられ,以後30年和歌の普及に努めた。家集『藻虫集』は現存せず,光軌の歌は多くは伝わっていない。<参考文献>小高敏郎「打它公軌とその子孫」(『近世初期文壇の研究』)
(飯倉洋一)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報