日本大百科全書(ニッポニカ) 「中村藩」の意味・わかりやすい解説
中村藩
なかむらはん
陸奥(むつ)国相馬(そうま)(福島県相馬市)周辺を領した外様(とざま)藩。藩主相馬氏、居城は中村。相馬藩ともいう。1189年(文治5)源頼朝(よりとも)の奥州征伐の功によって、奥州相馬氏の祖となった師常(もろつね)は、父千葉常胤(つねたね)とともに従軍し、その功で行方(なめかた)郡を賜った。その後、南北朝・戦国期の動乱にもよく領土を保全し、1600年(慶長5)関ヶ原の戦いでは、相馬義胤(よしたね)が徳川家康の出陣要請に応じなかったため領土を没収されたが、1602年家光(いえみつ)誕生の慶事もあって本領安堵(あんど)となった。その子利胤(としたね)は1611年小高(おだか)城から中村城に移り、城下町を建設して家臣を集住させたが、知行(ちぎょう)28石以下の下級臣880人は、従来どおり郷村に住まわせ、城下町に集住した府下(ふもと)給人に対し、在郷給人と称された。義胤の子利胤から義胤、忠胤(ただたね)、貞胤(さだたね)、昌胤(まさたね)、叙胤(のぶたね)、尊胤(たかたね)、恕胤(もろたね)、祥胤(よしたね)、樹胤(むらたね)、益胤(ますたね)、充胤(みちたね)、胤(としたね)(誠胤(ともたね))まで13代260余年間、1871年(明治4)廃藩置県まで続いた。この間1629年(寛永6)領内総検地で宇多(うた)、行方、標葉(しねは)3郡6万石余となり、幕府の許可を得て相馬中村藩の表高とした。その後1656年(明暦2)ふたたび総検地を行い10万2000石と定めた。さらに1696年(元禄9)の総検地では総内高13万6000石となった。3代忠胤は1658年(万治1)領内を7郷に分け地方(じかた)支配機構を整備し、「野馬追い」の神事を行い藩体制を確立させた。1755~56年(宝暦5~6)の飢饉(ききん)で領内人口は激減、藩の収納米4万6000石の減少があり、藩は家臣の知行の一部を借り上げて財政難に対処した。1784年(天明4)の大飢饉(ききん)では餓死者、欠落(かけおち)者1万6000人を数え、年貢米7万6000石の減収となり、1813年(文化10)藩借財30万両に達した。藩主益胤・充胤父子は移民政策、二宮御仕法(尊徳仕法)の実施などによる農村復興策を実施し、藩財政の回復に努めた。1868年戊辰(ぼしん)戦争では奥羽列藩同盟に参加したが、西軍に降服し藩領を安堵された。廃藩置県により、藩領は中村県、平(たいら)県、磐前(いわさき)県を経て、76年(明治9)福島県に編入された。
[誉田 宏]
『『福島県史 3 近世 2』(1970・福島県)』▽『『相馬市史』(1983・相馬市)』