青森県北部,下北半島にある市。2005年3月旧むつ市が大畑(おおはた)町,川内(かわうち)町,脇野沢(わきのさわ)村を編入して成立した。人口6万1066(2010)。
むつ市北部の旧町。旧下北郡所属。人口9159(2000)。下北半島北部の中央を占め,津軽海峡に面する。恐山山地の北にあたり,町域の95%は山林で,大畑川,正津川下流にわずかに耕地があるが,偏東風(やませ)が強く農業は振るわない。中心の大畑は大畑川河口にあり,近世に木材の積出港として発達し北前船でにぎわった。山林の大部分を占める国有林は現在もヒバの美林が多く,製材は町の主要産業の一つである。明治中ごろからイカ漁が盛んとなり,1934年大畑漁港の修築を機に町制が施行されて以後は,イカ漁を中心とした漁業が町の中心産業となった。イカ珍味などの水産加工も盛ん。恐山北麓の山中にある薬研(やげん)温泉は大畑川の渓谷美に恵まれ,さらに上流2kmにはかつて湯ノ股温泉と呼ばれた奥薬研温泉があり,緑色凝灰岩をくりぬいた露天の千人風呂で知られる。大畑は39年に開通した国鉄大畑線(のち下北交通大畑線。2001年廃止)の終点で,旧むつ市の下北と結ばれていた。いたこで有名な恐山は旧むつ市の飛び地であった。
むつ市西部の旧町。旧下北郡所属。人口5747(2000)。斧形をした下北半島の斧頭部にあり,陸奥湾に面する。下北山地が大部分を占め,町域の95%は山林である。中心の川内は近世にヒバ材の積出港として発展した。川内川中流の安部城には大正年間に硫化鉄鉱の安部城鉱山が開発され最盛期には従業員約1000人を擁したが,昭和に入って産出量が減少し,1952年に休山した。川内川沿いにわずかな耕地があるが,農業はあまり振るわず出稼ぎが多い。川内には漁港があり,ホタテガイの養殖が盛んとなっている。川内川上流には湯野川温泉があり,山間の閑静な湯治場として親しまれている。佐井,大間方面へ〈かもしかライン〉が通じ交通の便がよくなった。
執筆者:佐藤 裕治
むつ市東部の旧市で,下北半島の頸部に位置する。1959年田名部(たなぶ)町と大湊町が合体して市制を施行,大湊田名部市と称したが,翌60年現名に改称。人口4万9341(2000)。北は津軽海峡を隔てて北海道に相対し,南は大湊湾を抱く。田名部は南部藩時代から下北半島の経済的中心として海産物や木材の取引が行われ,代官所も置かれた。1870年(明治3)には官軍に敗れた会津藩が3万石に減封されて田名部に移され,斗南(となみ)と称した。大湊は海軍の根拠地として発展してきた軍港都市で,第2次大戦後は海上自衛隊の基地となっている。1960年下北総合開発計画に基づいて地元の資源の砂鉄を原料とする〈むつ製鉄〉の建設が計画されたが,産業界の情勢変化もあって64年に計画は中止された。67年日本初の原子力船〈むつ〉の母港が〈むつ製鉄〉建設予定地に置かれた。その後放射能漏れ事故が発生したため75年母港の移転が決められ,津軽海峡側の関根浜に新母港が88年に建設されたが,95年原子力船〈むつ〉は解体された。酪農やホタテガイ,ノリの養殖が行われる。JR東北本線の野辺地(のへじ)から大湊線が分岐して大湊まで通じ,さらに大湊線の下北からバス路線が分かれ,田名部を経由して大畑,大間,佐井に至る。田名部からは恐山へのバスが出る。
執筆者:横山 弘
むつ市南西端の旧村。旧下北郡所属。人口2775(2000)。下北半島の南西端に位置し,西は平舘海峡,南は陸奥湾に面する。村域の8割以上が山村で,そのほとんどが国有林である。中心の脇野沢は近世,ヒバ材の積出港として栄え,北陸方面との交易が盛んであった。またタラは陸奥湾随一の水揚げがあり,おもに江戸方面へ運ばれた。西海岸は北の仏ヶ浦から続く豪壮な海食崖で,下北半島国定公園に指定されている。南端の牛ノ首岬の沖400mにある鯛島には坂上田村麻呂にまつわる伝説を伝える弁才天がまつられ,周囲は海中公園となっている。南西岸の北海岬に近い小漁村の九艘泊(くそうどまり)付近には100頭を超えるニホンザルが生息し,世界最北限の野生猿として特別天然記念物に指定されている。また九艘泊には,源義経の伝説も残る。青森市や外ヶ浜町の旧蟹田町との間にフェリーが通じる。
執筆者:佐藤 裕治
スズキ目ムツ科の海産魚。おもに本州中部以南から沖縄にかけて分布しているが,北海道南部にもいる。一般に同属の別種クロムツS.gilbertiと区別せずに扱う。地方により,幼魚をオンシラズ,クジラトウシ,ヒムツなど,成魚をオキムツ,クルマチ,ノドクロなどと呼ぶ。また仙台ではロクノウオまたはロクと呼ぶが,これは藩主伊達陸奥守に遠慮したためと伝えられている。ムツ,クロムツとも幼魚は体が赤褐色で,沿岸のごく浅い,潮通しのよい岩礁域に大群をなしている。成長するとともに沖合の深所に移動し,成魚はおもに水深200~600mの岩礁地帯にいる。ムツは全長100cm,クロムツは80cmに達する。産卵期は冬で,分離浮性卵を産む。また両種とも小型の魚類,イカ,甲殻類などを食べている。おもに釣りにより,キンメダイ,メダイなどとともに混獲される。大型になり,価格も高いため,水産上重要である。しゅんは冬で,刺身,煮つけなどに向く。また,卵巣は吸物や煮つけとして珍重される。
執筆者:望月 賢二
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
硬骨魚綱スズキ目ムツ科に属する海水魚。北海道から九州南岸までの太平洋と日本海沿岸、東シナ海、九州・パラオ海嶺(かいれい)、台湾、朝鮮半島南岸、済州島(さいしゅうとう)(韓国)などの西太平洋、モザンビーク、南アフリカなどのインド洋に分布する。体は長楕円(ちょうだえん)形でやや側扁(そくへん)する。頭は大きく、頭長は体長のおよそ3分の1。吻端(ふんたん)はとがる。目は大きく、眼径は吻長に等しいか、わずかに長い。両眼間隔域は平坦(へいたん)。口は大きく、上顎(じょうがく)の後端は目の中央部よりも後方に達する。上下両顎歯は犬歯状で、1列にまばらに並ぶ。上顎の前端の内側に2~3本のやや大きな犬歯がある。舌上にも歯がある。鋤骨歯(じょこつし)(頭蓋(とうがい)床の最前端の骨にある歯)は半月形をした絨毛(じゅうもう)状歯帯で、口蓋骨歯は1~2列に並ぶ。鰓耙(さいは)は上枝に2~5本、下枝に12~17本。側線有孔鱗(ゆうこうりん)数は50~57枚。背びれは2基に分かれ、第1背びれは胸びれの基底よりもかなり後ろの上方から、第2背びれは臀(しり)びれよりも前方から始まる。第1背びれは8~9棘(きょく)、第2背びれは1棘12~14軟条、臀びれは3棘11~13軟条。尾びれは深く二叉(にさ)する。体色は黒みがかった赤褐色で、腹部は銀白色であるが、幼魚期に鱗(うろこ)がはがれやすく、鱗がはがれた個体ではいくぶん紫色になっている。尾びれは黄褐色で縁辺は淡黒色。成魚では口の中は黒い。産卵期は12月~翌年3月で、卵は浮性卵である。孵化(ふか)した仔魚(しぎょ)は5月ころには4センチメートルくらいに成長し、沿岸の岩礁地帯や藻場(もば)に群れをなしてすむ。小魚やエビ・カニ類などを貪食(どんしょく)して成長を続け、成魚になると沖に出て水深200~700メートルの深海の岩礁域に群れですむ。肉食性で魚類、甲殻類、頭足類などを食べる。満3歳で体長約30センチメートルになり成熟する。最大全長は80センチメートル。若魚は釣りや定置網で、成魚はおもに底魚立縄(たてなわ)釣りによって漁獲される。旬(しゅん)は冬で、煮つけ、鍋物(なべもの)、焼き魚、刺身などにする。また卵巣も賞味する。近縁種のクロムツS. gilbertiとは、ムツのほうが側線有孔鱗数が少なく、鰓耙が多いことと、クロムツのほうが体色が黒紫褐色であることなどで区別できる。
[片山正夫・尼岡邦夫 2021年2月17日]
白身魚だが脂質が多く、身は柔らかい。とくに冬の子持ちのムツは味がよい。卵巣はムツ子と称し、マダラの卵巣に似ていて賞味される。身は煮つけ、照焼き、みそ漬け、鍋物などにする。卵巣は煮つけに、白子も煮つけや鍋物によい。
[河野友美・大滝 緑]
船釣りになる。浅い所で水深100メートル前後、深い所では200~300メートルをねらう。胴づき専用竿(ざお)、胴づきリールか、深場では電動リールも使う。道糸は伸びのない糸8~12号。先糸に透明ナイロン糸8~10号5~10メートル。ムツ鉤(ばり)を結んだ枝鉤3~5本、オモリ120~250号。
餌(えさ)はヒシコイワシ、サバの身、イワシの身などを使う。仕掛けを一気に海底まで沈め、オモリがついたら1メートルほどリールで巻き揚げて魚信を待つ。竿先にククッと明確な反応が出る。慌てず、ゆっくり、ひと呼吸置いてリールを巻くと、1尾、2尾と追い食いすることが多い。釣り場によってはシロムツ、アカムツなども混じるので、冬に楽しめる釣りである。
[松田年雄]
青森県北東部、下北半島(しもきたはんとう)の中央に位置する市。北は津軽海峡、南は陸奥(むつ)湾の一部大湊湾(おおみなとわん)に面す。1959年(昭和34)田名部(たなぶ)、大湊の2町が合併して市制施行、大湊田名部市となり、1960年むつ市と改称。2005年(平成17)、下北郡川内町(かわうちまち)、大畑町(おおはたまち)、脇野沢村(わきのさわむら)を編入。JR大湊線、国道279号、338号、394号が通じる。恐山(おそれざん)山地の大尽(おおづくし)山、屏風(びょうぶ)山が連なり、田名部川流域に耕地が開け、市街地がある。
中心の田名部は、近世、盛岡藩の代官所が置かれ、物資の集散も盛んで、下北半島の中心的位置を占めてきた。1871年(明治4)斗南藩(となみはん)(旧、会津藩)の藩庁が置かれた。田名部川河口の大湊には安渡湊(あんどみなと)、大平湊(おおだいらみなと)があり木材の積出し港として栄えた。1905年(明治38)大湊海軍要港部が置かれ、以後軍港として発展し、第二次世界大戦後は海上自衛隊基地となった。1967年原子力船「むつ」の母港となり、佐世保(させぼ)港での放射線漏れ事故処理後ふたたび入港し、原子炉凍結のまま係留されていたが、1988年1月、津軽海峡に面した新母港関根浜に移された。産業は農林業のほか肉牛の飼育、水産業ではイカ漁、ホタテ養殖などが行われる。常念寺の木造阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)は国指定重要文化財。宇曽利山湖や恐山の外輪山などは下北半島国定公園域。面積864.12平方キロメートル、人口5万4103(2020)。
[横山 弘]
『『大湊町誌』『田名部町誌』復刻版(1980・むつ市)』
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…食用にもする。カワムツZ.temmincki(イラスト)は形態も似ているが,体側に太い暗青色の縦帯があるので容易に区別される。ムツ,モツ,アカムツなどの地方名がある。…
…日本では,1955年ころから原子力船に関する調査,研究が始まり,61年原子力開発利用長期計画において70年を目途に原子力第1船を建造することを決定,63年には日本原子力船開発事業団が発足した。こうして69年,特殊貨物船である原子力船〈むつ〉が進水した。この事業団は85年から日本原子力研究所に併合し,原子力第2船の検討を含めた事業を継続する。…
…電力業界が高い授業料を払い,苦心のあげくに全出力営業運転にようやくこぎつけたのは71年のことであるが,その時はすでにせっかくのガス炉についての経験はただ1基だけで放棄され,新たにアメリカからの軽水炉導入路線に乗り換えつつあった。
[法廷論争]
埼玉県大宮市に三菱原子力工業が原子力船〈むつ〉の原子炉に使用する核燃料を試験する目的で設置した臨界実験装置(法律上原子炉と同じ扱いを受ける)の撤去を要求して住民が起こした訴訟が,日本における原子力法廷論争の始まりである。企業秘密をたてに資料公開を拒む三菱側に対し,裁判所が強制提出を命令するに及び,会社側は撤去に同意し住民側と和解する道を選んだ(1974年7月)。…
※「むつ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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