日本歴史地名大系 「敷田村」の解説 敷田村しきだむら 大分県:宇佐市旧四日市町地区敷田村[現在地名]宇佐市上敷田(かみしきだ)・中敷田(なかしきだ)・下敷田(しもしきだ)・南敷田(みなみしきだ)宮熊(みやぐま)村の南、天津(あまつ)台地と通称される台地上にあり、東は庄(しよう)村、西は五十石(ごじつこく)川を境に富山(とみやま)村、南は大根川(おおねがわ)村。中世敷田庄の遺称地。近世の領主の変遷は尾永井(おながい)村に同じ。幕末には北から下・中・上・南各敷田村の四ヵ村に分立した。小倉藩元和人畜改帳では高一千八五四石余、人数三〇九、百姓三七・名子一五・坊主二・牢人一、牛四七・馬五。中津藩領となってからは当地の敷田家が大庄屋を勤めることもあり、延宝二年(一六七四)には八ヵ村で敷田組を形成していた(四日市村年代記)。天保九年(一八三八)の巡見御用答手控帳(古寺家文書)によれば反別一七七町一反余、家数二三〇・人数一千二八、牛馬八六。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by