本州中部地方の北部、日本海の富山湾に面した県。東は立山(たてやま)連峰を境にして新潟県、長野県に接し、西は宝達(ほうだつ)丘陵により石川県に、南は飛騨(ひだ)山脈により岐阜県に境する。中部山岳地帯、飛騨高地からは黒部(くろべ)川、常願寺(じょうがんじ)川、神通(じんづう)川、庄(しょう)川などが北流し、山麓(さんろく)から富山湾岸にかけて複合扇状地の富山平野をつくる。富山平野は県の生活舞台の中心をなし、県都富山市がある。
富山県の産業は長く米作主体の農業が中心であったが、第一次世界大戦後、豊富な水資源を利用する電源開発が進み、化学肥料、電気製鋼などの工場が立地し、日本海沿いでは有数の工業県となっている。
2020年度(令和2)の国勢調査による富山県の人口は、103万4814人で全国総人口の1%に満たない。第1回国勢調査時(1920)の約72万5000人に比べると約31万人の増加である。1920年(大正9)以降人口は増加を続けたが、1960年(昭和35)から1965年にかけてはやや減少した。これは京浜、阪神、中京工業地帯に人口が流出したためで、1965年以降はふたたび増加に転じた。しかし、2000年代以降は微減傾向が続いている。富山市と高岡市の人口で県人口の半分以上を占め、富山市周辺の町村では増加傾向にあるが、山間地区では減少が著しい。
北陸道越中(えっちゅう)一国からなり、面積4247.58平方キロメートル、2020年10月時点では10市2郡4町1村で構成される。
[深井三郎・中藤康俊]
富山県は日本の地体構造上、西南日本内帯の北東端にあたる。三方を山地に囲まれ、北部は富山湾に面する。東部は標高3000メートル内外の山々が連なる飛騨山脈(北アルプス)の中央部から北部を占め、その北部は親不知(おやしらず)の断崖(だんがい)で日本海に臨んでいる。北アルプスの北西部は、黒部峡谷によって、立山を主峰とする立山連峰と、富山・長野県境にそびえる白馬(しろうま)岳、鹿島槍ヶ岳(かしまやりがたけ)などからなる後立山連峰(うしろたてやまれんぽう)に二分される。立山連峰の前山山地は第三紀の低い山地となって平野に臨んでいる。北アルプス一帯は中部山岳国立公園域で、薬師(やくし)岳圏谷群(特別天然記念物)など氷河期の名残(なごり)もみられる。また黒部峡谷は特別名勝・特別天然記念物に指定されている。県南部の岐阜県境にある山地は飛騨高地から続く1500メートル内外の山地で、北に延びて丘陵性の山地となる。西部の石川県境の山地は大門山(だいもんざん)(1572メートル)から医王山(いおうぜん)(939メートル)に至り、北に延びて、標高300メートル以下の礪波山地(となみさんち)となり、さらに延びる500メートル以下の山地は能登(のと)半島の基部を形成する。県中央部にある呉羽丘陵(くれはきゅうりょう)(最高145メートル)は富山平野を東西に二分する。呉東(ごとう)の平野は東部山地から流れ出る黒部川、片貝(かたかい)川、早月(はやつき)川、常願寺川、神通川などがつくる扇状地の複合した平野である。呉西の平野は飛騨の西部山地から流れる庄川の扇状地と、小矢部(おやべ)川の流域を含めた礪波平野、富山湾に面する射水平野(いみずへいや)、および氷見平野(ひみへいや)からなる。
富山県の海岸線の延長は約95キロメートル。小矢部川河口左岸から能登半島にかけては一部の海岸砂丘帯を除き、おおむね岩石海岸で山地が直接海に迫る。白砂青松の雨晴(あまはらし)海岸、島尾(しまお)海岸とともに能登半島国定公園の一部となっている。小矢部川河口右岸から東部の常願寺川河口までは砂浜海岸が続き、それ以東は礫浜(れきひん)海岸となっている。富山湾は水深200メートルの陸棚が魚津(うおづ)の沖1キロメートルまでしかないなど、日本本土沿岸では例をみない急峻(きゅうしゅん)で大深度の湾である。神通川や庄川などの河口付近には顕著な海底谷がある。晩秋から冬季にかけて「寄り回り波」という暴浪による海岸侵食が激しいため護岸堤防が連続し、所々に離岸堤がある。なお、富山湾岸で発見された魚津埋没林、富山湾のホタルイカ群遊海面はともに特別天然記念物に指定されている。
自然公園には前記の国立・国定公園のほかに、朝日、有峰(ありみね)、五箇山(ごかやま)、白木水無(しらきみずなし)、医王山、僧ヶ岳の6県立自然公園がある。
[深井三郎・中藤康俊]
典型的な日本海式気候を示す。富山市の年間平均気温は14.1℃(1981~2010)。春から夏にかけて南風が卓越するとフェーン現象がおこる。とくに春先の礪波平野南部で顕著で、異常高温になる場合が多い。年降水量は地形によって異なり、平野部で約2300ミリメートル、山沿いでは3400ミリメートル前後、山岳地帯では5400ミリメートル以上になる。積雪は4メートルに達することもあり、年降水量の約3分の1は雪によるものである。降雪の影響で冬の日照時間は少なく、東海地方の約3分の1にすぎない。
自然災害は海岸侵食のほか、梅雨期と融雪期の水害が多かったが、河川堤防の改修などで大河川の水害はほとんどなくなった。地盤災害としては氷見山地の第三紀層地すべり、ことに胡桃(くるみ)の地すべり(胡桃の大地すべり)は全国的に知られている。台風による被害は少なく、地震災害も全国的にみて比較的安全な地域である。
[深井三郎・中藤康俊]
富山県東部の上市(かみいち)町からナイフ型石器が発見され、魚津市桜峠からは縄文早期の押型文土器、氷見市朝日貝塚(国の史跡)からは縄文初期の朝日式土器が発掘された。朝日貝塚の近くにある海食洞の大境洞窟(おおざかいどうくつ)(国の史跡)からは縄文・弥生(やよい)式土器のほかに多数の人骨が発見されている。県内の古墳は4世紀以降のもので、高岡市の桜谷古墳(さくらだにこふん)、富山市の王塚古墳(ともに国の史跡)は5世紀ごろの築造で、県の古墳中最大級の前方後円墳である。いまの射水・氷見地方に伊弥頭(いみづ)の国造(くにのみやつこ)が置かれ、大化改新(645)後、北陸地方一帯は越国(こしのくに)とよばれた。阿倍比羅夫(あべのひらふ)が越国の国司に任ぜられ、北辺の蝦夷(えぞ)に対する大和(やまと)朝廷支配の第一線地帯であった。天武(てんむ)天皇のころ越国は越前(えちぜん)、越中、越後(えちご)に分かれた。当時の越中には頸城(くびき)、魚沼(うおぬま)郡も含まれていたが、702年(大宝2)に越後に属し、741年(天平13)越前の羽咋(はくい)、能登、鳳至(ふげし)、珠洲(すず)の4郡が越中にあわされたが、757年(天平宝字1)4郡は能登国として分立した。越中国は新川(にいかわ)、婦負(ねい)、射水、礪波(となみ)の4郡となり、ほぼ現在の富山県の地域となった。越中国府は現在の高岡市伏木古国府(ふしきふるこくふ)に置かれ、746年(天平18)には大伴家持(おおとものやかもち)が越中守に任ぜられている。当時東大寺の墾田(こんでん)が射水、礪波、新川各郡に開かれていた。『続日本紀(しょくにほんぎ)』によると礪波臣志留志(となみのおみしるし)が広大な土地を所有し、東大寺に三千碩(せき)を献じたことが記されている。また『和名抄(わみょうしょう)』には越中国の田数1万7909町5段30歩とある。
[深井三郎・中藤康俊]
保元(ほうげん)の乱(1156)後の平氏の全盛期には平教盛(のりもり)・盛俊・業家(なりいえ)らが越中の国司となった。1181年(養和1)源義仲(よしなか)が城資永(じょうのすけなが)を破って越後に入ると越中の武士団は義仲にくみした。1183年(寿永2)の「礪波山の戦い」後、敗走する平家を追って義仲は都に入った。
鎌倉幕府成立後、越中の守護には比企能員(ひきよしかず)が任ぜられ、1221年(承久3)には名越朝時(なごやともとき)が越後・越中守護に任ぜられ、以来名越氏が越中守護職についた。守護所は放生津(ほうじょうづ)(射水(いみず)市)に置かれた。建武(けんむ)新政(1334)後、足利(あしかが)方の普門蔵人(ふもんくろうど)利清が守護となり、以来30余年の間、越中国は南朝方と足利方の北朝方との抗争が続いた。
戦国時代の越中には西に神保(じんぼ)氏、東に椎名(しいな)氏が威を張り、武田、上杉、織田の勢力に対抗し、これに瑞泉(ずいせん)寺、善徳寺、勝興寺などを中心とする一向一揆(いっこういっき)が介在した。一揆は初め武田と結び上杉勢の侵入に抗したが、のちに和して織田方に抗した。上杉謙信(けんしん)の急死後は織田方の攻勢が始まり、1580年(天正8)織田氏の臣佐々成政(さっさなりまさ)が富山城に入った。
[深井三郎・中藤康俊]
本能寺の変後の1585年(天正13)成政は豊臣秀吉(とよとみひでよし)の軍門に降(くだ)り、越中の支配権は前田利家(としいえ)に移った。前田氏は加賀、越中、能登の3国を統治したが、1639年(寛永16)加賀3代藩主利常は次男利次(としつぐ)に神通川流域の婦負郡と、能美(のみ)郡、新川郡の各一部を分封し、ここに富山藩10万石が成立した。利次は富山城を修築し、城下町の整備に努めた。富山藩2代藩主正甫(まさとし)は富山売薬を始めたとされる。1767年(明和4)藩は反魂丹(はんごんたん)役所を設け富山売薬の保護、統制をした。加賀藩領の礪波、射水、新川郡の大部分では大規模な灌漑(かんがい)用水路の工事が行われ、芹谷野(せりだんの)や山田野、舟倉野(ふなくらの)、十二貫野(じゅうにかんの)などの用水をつくり、丘陵地や高台の開田が進んだ。
[深井三郎・中藤康俊]
1871年(明治4)の廃藩置県によって婦負郡と新川郡の一部が富山県となったが、まもなく新川県に改められ魚津に県庁が置かれた。1876年加賀・能登・越前・越中の全域が石川県となったが、1883年には越中国が分離して富山県として独立した。1875年伏木(ふしき)港に北陸で最初の西洋型汽船が寄港した。まもなく伏木港はロシア、樺太(からふと)(サハリン)、朝鮮向けの特別輸出港となり、1899年には開港場に指定された。1898年には北陸線が開通した。
1917年(大正6)から1918年にかけて米価が高騰し、全国に米騒動が発生したが、その発火点は富山県だといわれている。米価の引下げと県外移出の禁止を求めて、中新川郡の漁婦たちが集会を開いたが、それが「越中女一揆」として報道され、全国各地に広まったのである。
一方、明治から大正にかけての農村不況は全国的な北海道移住をもたらしたが、富山県下でとくに多く、1897年からの10年間に約6万人が移住したといわれる。
[深井三郎・中藤康俊]
富山県農業の特色は米作中心の水田単作農業にある。耕地面積は1990年(平成2)の6万8000ヘクタールから1995年の6万4200ヘクタール、2001年の6万1000ヘクタールと減少した。うち水田は5万8600ヘクタールで耕地面積の96%(全国第1位)を占める。水田が多いのは広大な扇状地平野があること、河川水が豊富であるため灌漑に好都合であること、藩政時代からの農業政策として開田事業が強力に進められ、用水路の建設が行われたこと、昭和初年からの電源開発と結んで扇頂部に用水ダムを建設し取入れ口を合口化して農業用水の安定化を図ったことなどがあげられる。
全農家戸数は4万7227戸(2000年世界農林業センサス)、販売農家数3万9397戸で、そのうち専業農家2771戸、兼業農家率93%である。耕地面積1ヘクタール未満の農家は50%を占め、3ヘクタール以上の耕地をもつ農家は約4%にすぎない。地域的にみると、東部の諸扇状地平野は砂礫(されき)質の浅耕土のうえに雪解け水による冷害のため従来から反当り収穫量は少なかったが、1951年(昭和26)に黒部川流域で始まった粘土質の土を田に流し込む流水客土による画期的な土地改良事業の結果、収穫量は30~40%も増加した。農用機械の導入は1950年ごろから始まり、1960年ごろにはその普及率は全国一となった。1995年には耕うん機・トラクター4万7556台、動力田植機3万4533台などとなっている。農業構造改善事業は1962年から実施され、圃場(ほじょう)整備率は80%(2001)である。圃場面積の大型化、農業従事者の減少などから集団化農業が進められており、稲作請負業、小作請負会社も出現している。1990年からの5か年間で農地の転用は2759ヘクタールになった。その50%は住宅および建物用地で、そのほか工場用地、道路水路用地に転用されている。米作が主体なので野菜などの畑作地は少ない。富山市近郊では呉羽丘陵西側、高岡では庄川の自然堤防帯、氷見の海岸砂丘帯などがおもな畑作地である。礪波平野はチューリップの球根の産地として知られる。球根栽培は1918年(大正7)ごろに始まり、いまではアメリカ、ヨーロッパに輸出している。作付面積は203ヘクタール(2001)、出荷量は4630万球で、全国第1位。下新川(しもにいかわ)郡入善(にゅうぜん)町は長円形の黒部スイカを特産し、呉羽丘陵一帯ではナシの栽培が行われる。
畜産業はあまり振るわない。乳牛・肉牛飼育、養豚、養鶏などが行われるが、飼養農家、飼養数とも激減している。
森林面積は県総面積の67%、約28万5000ヘクタールで、そのうち国有林が37%を占める。保安林は約19万7000ヘクタールで、保安林率は69%(2021)。水源涵養(かんよう)林、土砂流出防備林などの保安林が占める割合は全国でも高いほうである。造林は人工造林の限界とみられる1000メートルを超える山地が約20%を占め、積雪量の多いことが造林上の支障となっている。林産物にはシイタケ、キノコ類、クリなどがある。
[深井三郎・中藤康俊]
富山湾は寒暖両流の影響で魚類は豊富で、沿岸漁業は古くから発達していたが、大正初期から漁獲高が減少している。従来からの定置網のほかにハマチ、ワカメなどの養殖が行われている。漁業世帯数は1706(2000)で、漁民の高齢化が目だつ。漁獲量は4万6304トン(2001)で、おもにサンマ、スルメイカ、マグロ、カツオ、アジ、ブリ、サケ、マスなどが獲れる。このほか4月から6月上旬にかけて富山湾の滑川(なめりかわ)、魚津沖合いでのホタルイカ漁や、10月から2月までベニズワイガニ漁がある。定置網はとくに灘浦(なだうら)、氷見浦、新湊、魚津沖で盛ん。漁港は16港、うち第1種漁港は10港。漁船は5トン以下のものが半数を占める。
[深井三郎・中藤康俊]
中部山岳地帯に源を発する黒部川、片貝川、早月川、常願寺川や、飛騨高地から流出する神通川、庄川など大小50余の河川があり、流量が豊富で地形上からも水力発電に適し、明治中期から発電所がつくられている。かつては流れ込み水路式、ダム水路式の発電所が多く、融雪期や梅雨期には大量の余剰電力を生じ、これを安く供給したため、大正末年ごろから電力消費型の化学、鉄鋼の工場が進出した。第二次世界大戦後、有峰ダム、黒部ダムなどの大容量のダムが建設され、莫大(ばくだい)な資本投下のため低廉な電力料金のメリットは失われた。2001年度の県内発電所数は150(うち水力125)、発電電力量は143億キロワット(うち水力は63%)に上る。黒部川と庄川水系の関西電力と、常願寺川、神通川水系の北陸電力の発電所が中心である。
[深井三郎・中藤康俊]
2006年(平成18)の製造品出荷額は3兆7254億円で、日本海沿岸では新潟県と並ぶ工業県である。業種別出荷額は一般機械、化学、金属製品、電子部品、非鉄金属、プラスチック、鉄鋼、石油・石炭などが上位を占める。従業者数は12万6030人で、従業員300人未満の中小規模の事業所が大部分を占め、300人以上の事業所は全体の0.2%にすぎない。
富山県の近代工業は「豊富な水」「低廉な電力」「勤勉な労働力」を背景に主として富山市、高岡市の臨海部に発達した。1917年(大正6)伏木港に電気製鉄(現、JFEミネラル)、北海電化工業(現、日本重化学工業)の工場が立地し、以後、化学、製紙、金属などの工場が進出した。富山港周辺には1933年(昭和8)日満アルミ(現、昭和タイタニウム)が立地、その後、日本曹達(ソーダ)、不二越(ふじこし)などの工場の進出をみた。現在、県内の重化学工業の大部分が両地区に集まっている。一方、繊維、木工などの軽工業は礪波平野などに多く、黒部市にYKKのファスナー、アルミサッシ、高岡市に三協立山アルミなどアルミ工業の工場群がある。1964年、富山・高岡両地区を中心とする地域が新産業都市に指定され、1968年には放生津潟に掘込み式の富山新港が完成し、工場用地に企業誘致も進んだ。しかし1973年のオイル・ショック以降、経済事情の変化に伴って工場の進出は停滞している。なお、1984年に富山地区がテクノポリス(技術集積都市)に指定され、八尾中核工業団地がつくられた。
伝統産業のうち、富山売薬は藩政時代に始まり、明治以降も「越中富山の薬売り」として日本だけでなく、朝鮮、中国にも販路を広げた。現在も中小の工場でつくられた家庭薬が、売薬配置員によって全国に配られている。高岡銅器も加賀2代藩主前田利長(としなが)が高岡に鋳物師を招いたのに始まるという。武具、農具をつくっていたが、仏具、花器などもつくるようになり、江戸末期には彫金の技術も加わった。現在では銅像、梵鐘(ぼんしょう)などの製作も行う。風景花鳥を精密に彫刻する南砺(なんと)市(旧、井波(いなみ)町)の井波欄間(らんま)も近世初期に始まる。欄間以外に衝立(ついたて)、屏風(びょうぶ)などもつくられる。このほか、高岡漆器、高岡・魚津両市の仏壇、氷見市の畳表、ござ、南砺市のプロ野球用の木製バット製造などが知られている。
[深井三郎・中藤康俊]
県下で最初に鉄道が敷設されたのは1897年(明治30)中越鉄道による黒田(現、高岡市)―福野間であった。1912年(大正1)には氷見まで延長され、1920年に国鉄(現、JR)城端線(じょうはなせん)・氷見線になった。北陸本線は1898年金沢から高岡まで開通し、翌年富山まで延長、その後新潟県境の親不知(おやしらず)をトンネルで貫き、直江津(なおえつ)まで開通した。高山本線は1934年(昭和9)に全通した。1969年(昭和44)に北陸本線の複線電化が完了し、輸送力は飛躍的に改善されたが、富山―東京間は北陸の県庁所在地中ではもっとも時間を要し、北陸新幹線の早期建設に多大の期待がかけられていた。2015年(平成27)3月、その北陸新幹線が金沢まで延伸、富山県内に黒部宇奈月(うなづき)温泉、富山、新高岡の三つの駅が設置された。新幹線の開業と同時に北陸本線の金沢―直江津間は第三セクターに移管され、富山県部分はあいの風とやま鉄道となった。富山地方鉄道は富山市を中心に本線、立山線、不二越(ふじこし)・上滝(かみだき)線などがあり、宇奈月温泉や立山方面へも通じている。また、富山市の富山軌道線、富山港線、高岡市・射水(いみず)市の万葉線(まんようせん)は路面電車となっている。黒部峡谷に沿っては黒部峡谷鉄道がある。
国道は東西に走る8号、名古屋から中部地方を横断して富山市に至る41号、庄川沿いの156号、能登方面への160号のほか、304号、359号、415号、471号、472号がある。滋賀県米原(まいばら)市と新潟市を結ぶ北陸自動車道は県中央部を南北に走り、砺波市・小矢部市(小矢部砺波ジャンクション)と名神高速道路を結ぶ東海北陸自動車道も全線開通した。富山空港は1984年にジェット化が実現し、東京―富山間を1時間で結んでいる。
[深井三郎・中藤康俊]
富山藩10代藩主前田利保(としやす)は本草(ほんぞう)学者として知られ、富山だけでなく江戸にも薬草園をつくるなど富山売薬の振興に大きく寄与した。共立富山薬学校は売薬業振興のために1893年(明治26)設立され、その後幾度かの変遷を経たのちに国立富山医科薬科大学に引き継がれていった。1924年(大正13)には日本海側で最初の高等商業学校である高岡高等商業学校が開校、1944年(昭和19)高岡経済専門学校と改称、さらに高岡工業高等専門学校になった。富山大学工学部の前身である。国立富山大学は旧制富山高等学校、富山師範学校などが母体となって1949年(昭和24)に発足した。2005年(平成17)に富山医科薬科大学、高岡短期大学と統合、現在の富山大学は人文、経済、医学、薬学など9学部からなる。このほか高等教育機関として、富山県立大、北陸職業能力開発大、私立の桐朋学園大学院大学、高岡法科大、富山国際大、富山短大、富山福祉短大。国立の富山高等専門学校がある(2018)。
1884年富山県最初の日刊新聞『中越新聞』が発刊された。民権運動の越中改進党の機関紙ともいうべきもので、1888年に『富山日報』と改めた。1940年の新聞統合で他の3紙とともに『北日本新聞』となり現在に至っている。『富山新聞』は1923年発刊の『越中新聞』を母体としている。放送関係では1935年にNHK富山放送局が開局。ほかに北日本放送(KNB)、富山テレビ放送(BBT)などがある(2018)。
[深井三郎・中藤康俊]
江戸時代、越中全域が前田氏の支配下にあったために全般的には衣食住の地域差は少ないが、山間僻地(へきち)や急流河川の多い新川地方では独特の生活風習がみられる。昭和初期まで農民は新しい綿服を晴れ着とし、それが古くなると仕事着とした。男性の仕事着の上着は半袖(はんそで)で丈は腰あたりまでで、アンコモモヒキをはいた。昭和10年代の初期ごろにモンペが普及するまで女性の仕事着は長着で、それを腰紐(こしひも)でたくし上げ、腕貫(うでぬき)、手甲、脚絆(きゃはん)をつけた。隔絶地であったころの五箇山(ごかやま)では、自分たちで織った麻を城端(じょうはな)町(現、南砺(なんと)市)の紺屋で裾(すそ)模様に染めて長夏着に仕立て、祭りの際に着たという。いまも五箇山では『こきりこ節』などの民謡で踊るとき長夏着を着用する。
米作県ではあるが、昭和初期までは山間地ではヒエ、アワが主食で、米食は盆と正月ぐらいであった。平野部でも平日は粥(かゆ)の中へダイコン、サトイモなどの野菜を入れたゾロという雑炊(ぞうすい)が一般的であった。魚類は、海岸地域を除けば塩物・干物で、暮れにブリを婚家へ送る風習があった。
礪波平野の散村にはカイニュ(垣入)という屋敷森に囲まれた家が多い。屋敷森はスギ、ケヤキのほかカキなどの果樹からなり、スギの葉は燃料に、材は改築時に利用した。農家は藩政時代、間口5間を超えないこと、草葺(くさぶ)きであることなどの制限があり、屋根は四注(しちゅう)造で、間取りは広間を中心に三方を囲むよう仏間、納戸(なんど)、オイの間(ま)(応接間)が配置され、台所は北側に置かれた。いろりの周囲に座る位置も主人の横座(よこざ)などそれぞれ定まっていた。
[深井三郎・中藤康俊]
1月15日を田植正月ともいう。中新川(なかにいかわ)郡の山間地や礪波地方の農家では、家の土間で田植のほか、いっさいの田作業のまね事を行い、そのあと豊作を祈って御馳走(ごちそう)する習わしがある。魚津市小川寺集落では1月15日の朝、小豆粥(あずきがゆ)の大鍋(おおなべ)の表面を田んぼに見立てて田打ちをし、表面をならしたあと、女たちが田植のまね事をしてその年の豊年を祈る風習がある。6月21日の「御影様(ごえさま)」は、黒部(くろべ)市の黒部川に架かる愛本(あいもと)橋の上で、南砺(なんと)市善徳寺の親鸞上人(しんらんしょうにん)絵像を川の西方講中から東方の講中へ渡す真宗の行事。そのあと御宿を定めて「御影様」が村々を一巡する。黒部市宇奈月町下立(うなづきまちおりたて)、宇奈月町浦山(うらやま)などで「えびすこ」「えびすさん」というえびす迎えの行事がある。11月20日旅先から金をもうけて帰ってきたえびす様を現実の人を迎えるように村境で待ち受け家へ案内する。入浴をさせ、神棚の下で二の膳(ぜん)付きで馳走する。そのあと主人がえびす様に感謝のことばを述べ、家中で夕食をとる風習である。翌年1月20日早朝、旅へ出かけるえびす様を神送りの行事で送り出す。南砺市福野地区には藩政時代からの年の市(いち)がいまも伝承されている。近郊の農家の人々がめいめいの場所で正月用の野菜、臼(うす)、杵(きね)、蒸籠(せいろう)、天神様の掛軸、注連縄(しめなわ)などを売るもので、県で唯一残っている年の市である。
富山県を代表する郷土芸能に越中オワラ節と麦や節がある。富山市八尾(やつお)地区のオワラ節は9月1~3日に豊作と風災害のないことを願って行われる。「風の盆」ともいい、胡弓(こきゅう)の音が町を流れ、編笠(あみがさ)をかぶった人々が三日三晩町を練る伝統行事である。麦や節は、庄川上流の五箇山を安住の地とした平家の落人(おちゅうど)にちなむものとも、また能登の遊女が伝えたものともいわれ、麻と麦と菜種が詠み込まれた感傷的な哀惜のリズムをもつ。踊り手は羽織袴(はかま)に脇差(わきざし)姿である。また五箇山には室町時代に禅宗が入り、田楽(でんがく)法師、放下(ほうか)僧が歌と踊りを伝えた。田植や祭りの際に行われる『こきりこ節』である。このほか五箇山には「といちんさ」「お小夜(さよ)節」「古代神(こだいしん)」など多くの民謡と踊りが伝えられ、「五箇山の歌と踊」として国の選択無形民俗文化財とされている。国の重要無形民俗文化財には、射水(いみず)市加茂中部(かもちゅうぶ)加茂神社・黒部市法福寺・富山市婦中町中名(ふちゅうまちなかのみょう)熊野神社の稚児舞(ちごまい)(越中の稚児舞)、滑川のネブタ流しなどがある。いずれも国指定重要無形民俗文化財の高岡御車山(みくるまやま)祭の御車山行事、魚津のタテモン行事、城端(じょうはな)神明宮祭の曳山行事は山・鉾・屋台行事としてユネスコ無形文化遺産に登録された。
[深井三郎・中藤康俊]
高岡市の瑞龍寺(ずいりゅうじ)は、加賀3代藩主前田利常が2代利長の菩提寺(ぼだいじ)として建てたものである。近世初期の禅宗伽藍(がらん)を代表する建築で、総門、山門、仏殿、法堂などを対称的に配置し、仏殿、法堂、山門は国宝、それ以外の7棟は国指定重要文化財とされている。南砺(なんと)市の瑞泉寺山門は1785年(天明5)に建てられた重層入母屋(いりもや)の大建築で、同市の善徳寺の山門とともに県を代表する山門である。
神社建築では、中新川(なかにいかわ)郡立山(たてやま)町岩峅寺(いわくらじ)の雄山(おやま)神社前立社壇本殿は北陸地方最大のもので、室町中期に修補されている。高岡市伏木一宮(ふしきいちのみや)の気多神社(けたじんじゃ)本殿、南砺市の白山宮(はくさんぐう)本殿も室町時代の建築である。小矢部(おやべ)市埴生(はにう)の護国八幡宮(はちまんぐう)の本殿、釣殿、拝殿及び幣殿の3棟は江戸初期に建てられたもので、加賀藩主前田氏の寄進による。以上の建築物はすべて国の重要文化財に指定されている。民家建築では、五箇山の合掌造が有名で、南砺市西赤尾の岩瀬家は庄川筋最大の合掌造で、同市の村上家、羽馬(はば)家とともに国の重要文化財に指定されている。なお、合掌造の多い南砺市の相倉(あいのくら)集落、菅沼(すがぬま)集落はそれぞれ国の史跡に指定されている。1995年(平成7)には岐阜県の白川郷の集落とともに世界遺産の文化遺産に登録されている。
富山市本法(ほんぽう)寺の「絹本著色法華経曼荼羅図(けんぽんちゃくしょくほけきょうまんだらず)」21幅は、鎌倉末期のもので、法華経を大和絵(やまとえ)の手法で綿密美麗に描いている。富山市大津賀家の「紙本著色野郎歌舞伎婦女遊楽図(しほんちゃくしょくやろうかぶきふじょゆうらくず)」は歌舞伎風俗画中注目される優秀作である。南砺市安居(あんご)寺の木造聖観音立像(しょうかんのんりつぞう)は県最古の平安初期のもの。富山市常楽(じょうらく)寺の木造聖観音立像と木造十一面観音立像は藤原初期の作である。上市町日石(にっせき)寺の不動明王は凝灰岩の大岩壁に半肉彫りした磨崖仏(まがいぶつ)で、丈3.5メートル、藤原時代の作といわれ、立山の修験者(しゅげんじゃ)と関係が深い。高岡市蓮花(れんげ)寺の銅製双竜飾錫杖(しゃくじょう)頭は1893年(明治26)立山大日(だいにち)岳で発見されたもの。以上の美術工芸品は国の重要文化財に指定されている。
関野神社の春祭に市内を巡行する高岡御車山7基は、前田家が秀吉から拝領したと伝えられている、彫刻、染色などに桃山時代の特色を伝える豪華絢爛(けんらん)たるもので、「立山信仰用具」「富山の売薬用具」とともに国の重要有形民俗文化財に指定されている。
[深井三郎・中藤康俊]
立山に咲くクロユリは、「早百合(さゆり)」の怨念(おんねん)がこもるといわれる。富山城主佐々成政は、愛妾(あいしょう)早百合が不義をはたらいているとの讒言(ざんげん)を信じ、早百合を神通川の磯部(いそべ)堤でつるし斬(ぎ)りにした。早百合は「立山にクロユリが咲くとき、佐々家は滅びる」という呪(のろ)いのことばを残した。のち成政は豊臣秀吉から切腹を命ぜられ、佐々家は滅亡した。また、風雨の夜、早百合がつるされた堤のエノキに鬼火が現れるようになり、人々は「ぶらり火」とよんだという。立山の開祖佐伯有頼(さえきありより)(慈興上人(じこうしょうにん))は83歳のとき雄山神社の窟(くつ)に入り、生きながら入定(にゅうじょう)したという。その後若狭(わかさ)(福井県)の尼僧が女人禁制の立山へ入ったが、たちまち神の怒りに触れて「姥石(うばいし)」と化した。連れの女もスギの木に変じたという。立山の地獄谷(じごくだに)では、死別した縁者を目の当たりに見ることができるという。陰暦7月7日の夜、地獄谷の地蔵堂に信者たちが集まっていると、無数のチョウが飛んでくる。「精霊市(しょうりょういち)」といい、死者の霊がチョウに姿を変えたのだと信じられている。黒部峡谷にも「雪女(ゆきおんな)」のほか数々の伝説がある。「祖父谷(じじだに)・祖母谷(ばばだに)」の伝説は、嫉妬(しっと)深い妻から逃げた男が誤って黒部の谷へ落ちた。男を追ってきた妻も別の谷に落ちた。男の落ちた谷を祖父谷、妻の落ちた谷を祖母谷とよぶようになったという。中新川郡稗田(ひえだ)(上市町)の鍛冶(かじ)屋が、一夜に槍(やり)千本を打つ者を婿にすると触れた。それに応じた若者が仕事場にこもったが、音が聞こえないのに不審を覚え、中をのぞくと鬼が鉄を鍛えていた。鍛冶屋がニワトリを鳴かせて夜明けを報じると、千本打てなかった鬼は逃げていった。これは「鬼の刀鍛冶」の類話である。
[武田静澄]
『『富山県の歴史と文化』(1960・富山図書館)』▽『坂井誠一著『富山県の歴史』(1970・山川出版社)』▽『『富山県史』全19巻(1972~1985・富山県)』▽『『私たちの富山県 新版』上下(1973・北陸出版)』▽『深井三郎著『富山県の地形・地質』(1976・富山県)』▽『『富山県大百科事典』(1978・富山新聞社)』▽『『角川日本地名大辞典 富山県』(1979・角川書店)』▽『『富山大百科事典』上下(1994・北日本新聞社)』▽『平山輝男他編『富山県のことば』(1998・明治書院)』▽『『日本歴史地名大系16 富山県の地名』(2001・平凡社)』
富山県中央部、神通川(じんづうがわ)流域を占め、北は富山湾に面する都市。東部を常願寺(じょうがんじ)川が北流して富山湾に注ぐ。県庁所在地。1889年(明治22)市制施行。当時の人口は約5万7000。1920年(大正9)婦負(ねい)郡桜谷(さくらだに)村、1926年同郡東呉羽(ひがしくれは)村、1935年(昭和10)上新川(かみにいかわ)郡奥田村、1940年同郡新庄(しんじょう)、東岩瀬の2町と島、針原(はりわら)、浜黒崎、大広田、豊田、広田の6村、婦負郡神明(しんめい)村、1942年上新川郡堀川町と山室(やまむろ)、蜷川(にながわ)、大田の3村、1960年(昭和35)婦負郡和合(わごう)町と上新川郡富南(ふなん)村、1965年婦負郡呉羽町をそれぞれ編入し、翌1966年常願寺川を越えて中新川郡水橋(みずはし)町を編入した。2005年(平成17)上新川郡大沢野(おおさわの)町、大山(おおやま)町、婦負郡八尾(やつお)町、婦中(ふちゅう)町、山田(やまだ)村、細入(ほそいり)村を合併。2005年中核市となる。面積1241.74平方キロメートル(一部境界未定)、人口41万3938(2020)。
[深井三郎]
富山はもと藤井村という寒村であったが、天文(てんぶん)年間(1532~1555)水越勝重が城を築いた。その後、神保(じんぼ)氏がここを拠点として上杉勢と抗争した。1579年(天正7)織田信長の臣佐々成政(さっさなりまさ)が本格的に築城したが、成政は豊臣秀吉(とよとみひでよし)に降伏し、以来前田氏の所領となった。1605年(慶長10)加賀2代藩主前田利長(としなが)が引退して金沢から富山城に入ったが、大火で焼失したため高岡に移り、以後30年間放置された。1639年(寛永16)3代利常(としつね)(1593―1658)の次男利次(としつぐ)(1617―1674)が富山10万石を分封され城を修築し、以来城下町として発達した。1883年(明治16)石川県から分県以来県都として発展した。1945年(昭和20)8月2日米軍機の空襲で市域の大半を焼失した。神通川の旧河道には県庁・市役所などの行政機関、NHKなどの報道機関、北陸電力、金融関係などのビルが集中している。
[深井三郎]
北陸新幹線・あいの風とやま鉄道(旧、JR北陸本線)が通り、富山駅からJR高山本線が岐阜に通じる。富山駅に接する富山地方鉄道の電鉄富山駅は本線、立山(たてやま)線、不二越(ふじこし)・上滝(かみだき)線の起点で、宇奈月(うなづき)温泉や立山方面へ通じ、富山市は立山黒部アルペンルートおよび黒部峡谷観光の基地となっている。市内には路面電車(富山軌道線、富山港線)も走っている。東西に通ずる国道8号、415号に直交するように41号が通ずるほか、359号、360号、471号、472号が走る。また北陸自動車道が東西方向に走り、富山、富山西の2インターチェンジが設置されている。富山空港があり、札幌(千歳(ちとせ))、東京(羽田)、国外はソウル、上海(シャンハイ)、大連(だいれん)、台北(タイペイ)との間に定期便が就航する。
[深井三郎]
富山駅南口の城址(じょうし)大通り沿いには大和(だいわ)デパートを中核とした複合商業施設、総曲輪(そうがわ)フェリオがある。商圏は全県に及ぶが、呉東(ごとう)(呉羽丘陵東部地域)が主。市内には配置売薬の中心工場広貫堂(こうかんどう)のほか、売薬を主とする中小の製薬工場が多い。工業は神通川下流右岸から北部と東部に発達し、東部地域には不二越、富山化学などがあり、右岸から北部の東岩瀬地域にかけて昭和電工セラミックス、三菱(みつびし)ケミカル、太平洋製鋼、アライドマテリアル(旧、東京タングステン)、東ソー、アステラス製薬、大平洋ランダム、富山製紙、十全化学などの工場がある。神通川河口西側に日本海石油、富山火力発電所がある。富山港はこの工業地を背景に船舶の出入りが多い。
呉羽丘陵の西側緩斜地はナシを中心とする果樹園が多く、また市への蔬菜(そさい)の供給地となっている。
[深井三郎]
市の中央部西寄りの呉羽丘陵は県定公園に指定されている。旧国道8号で南北に二分され、北部はサクラの名所、南部の城山地区は白鳥城跡を中心に呉羽ハイツ、少年自然の家、ファミリーパーク(動物園)がある。丘陵の東麓(とうろく)には五百羅漢のある長慶寺や富山市民俗民芸村がある。富山城跡は旧本丸と石垣と堀だけが残り、二の丸、三の丸は市街地となった。富山市郷土博物館に利用されている3層の天守閣は1954年の産業博覧会を機会に建築されたものである。国道41号沿いの城南公園には富山市科学博物館がある。大田地区の浮田家住宅(うきたけじゅうたく)は山廻(やままわり)役兼代官の浮田氏の住宅で、江戸中期の建築物として国の重要文化財に指定されている。縄文時代の北代(きただい)遺跡は国の史跡で、出土品を展示する北代縄文館がある。神通川上流の神通峡は県定公園、常願寺川河口右岸の水橋沖から魚津市沖にかけてのホタルイカ群遊海面は国の特別天然記念物。
[深井三郎]
『『富山市史』(1980、1987・富山市)』
千葉県南部、浦賀水道に面する安房郡(あわぐん)にあった旧町名(富山町(まち))。現在は南房総市(みなみぼうそうし)の北西部を占める地域。1928年(昭和3)岩井村が町制施行。1955年(昭和30)岩井町と平群(へぐり)村が合併改称。2006年(平成18)、安房郡富浦町(とみうらまち)、三芳村(みよしむら)、白浜町(しらはままち)、千倉町(ちくらまち)、丸山町(まるやままち)、和田町(わだまち)と合併して市制施行、南房総市となった。富山町の町名は『南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)』の舞台富山(とみさん)にちなむ。旧町域の海岸沿いにJR内房(うちぼう)線と国道127号が通じる。その東方を富津(ふっつ)館山道路が走り、鋸南(きょなん)富山インターチェンジが近い。中世、里見氏の所領となり、江戸初期、里見氏転封後は天領となった。山間集落の平群地区は安房酪農の中心をなし、ほかに野菜、花も栽培され、ビワを特産する。岩井海岸はみごとな砂浜をなし、第二次世界大戦前から「子供の海」といわれるほど波静かな海水浴場で知られる。民宿、保養所、貸家、貸間が多い。海岸は南房総(みなみぼうそう)国定公園、山地は県立富山(とみさん)自然公園に属し、富山の山中に『南総里見八犬伝』で知られる「伏姫籠穴(ふせひめろうけつ)」がある。天神社にある菅原道真(すがわらのみちざね)一代記の「紙本著色天神縁起絵巻」や菱川師宣(ひしかわもろのぶ)の没年を記した勝善(しょうぜん)寺の過去帳は県指定文化財。
[山村順次]
愛知県北東部、北設楽郡(きたしたらぐん)にあった旧村名(富山村(むら))。2005年(平成17)豊根村(とよねむら)に編入、現在は同村の東部を占める一地区。天竜川沿いに位置し、旧富山村の人口は県下最小であった。佐久間ダムの建設(1956)によって土地7.8ヘクタールが水没、74世帯が豊橋(とよはし)市の高師(たかし)、天伯(てんぱく)方面へ移住し、その後も人口流出が続いた。産業は林業のほか、チャの栽培など。天竜川対岸のJR飯田線大嵐(おおぞれ)駅(静岡県浜松市天竜区水窪(みさくぼ)町)を利用する。
[伊藤郷平]
千葉県南部、房総(ぼうそう)丘陵にある南房総市の山。標高349メートルで、北の金比羅(こんぴら)峰と南の観音峰に分かれている。曲亭馬琴(きょくていばきん)の『南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)』の舞台であり、峰の谷間に伏姫(ふせひめ)のこもったという洞窟(どうくつ)や犬塚などがある。西麓(せいろく)にはシイ、カシ、ツバキなどの常緑広葉樹やスギの森林が続き、ハイキングコースになっている。頂上からの東京湾、三浦半島の眺望もよく、県立富山自然公園に指定されている。
[山村順次]
基本情報
面積=4247.61km2(全国33位)
人口(2010)=109万3247人(全国37位)
人口密度(2010)=257.4人/km2(全国25位)
市町村(2011.10)=10市4町1村
県庁所在地=富山市(人口=42万1953人)
県花=チューリップ
県木=立山スギ
県鳥=ライチョウ
本州のほぼ中央部,日本海沿岸にある県。北西は石川県能登半島基部に連なり,東は新潟県,長野県に,南は岐阜県に接する。
県域はかつての越中国全域にあたる。江戸時代は加賀藩の支配下にあり,婦負(ねい)郡と新川(にいかわ)郡の一部を割いて支藩の富山藩が置かれていた。1871年(明治4)廃藩置県によって富山藩領は富山県となり,金沢(加賀)藩領は金沢県に属した。同年越中国のうち新川,婦負,砺波(となみ)の3郡をもって新川県が成立,射水(いみず)郡は能登の七尾県の管轄となった。翌年七尾県の廃県に伴い新川県は射水郡を併合し,いったん越中全域を管轄下に置いたが,76年石川県に併合された。83年越中全域が分離して富山県が再置され,現在に至っている。
桜峠遺跡(魚津市)は北陸で数少ない縄文早期押型文土器の遺跡として早くから注目されてきた。朝日貝塚(氷見市)は1910年代以来の調査で,いわゆる朝日式土器をはじめ骨製装身具をつけた人骨や硬玉製大珠などが出土している。東北・北陸地方の多雪地帯で最近発見が相次いでいる長円形の大型竪穴住居址(いわゆるロングハウス)が最初に調査されたのが不動堂遺跡(下新川郡朝日町)である。縄文中期前葉ごろのものだが,その機能に関心がもたれている。このほか中・晩期の遺跡で,晩期〈勝木原(のでわら)式〉の標準遺跡である勝木原遺跡(高岡市)などがある。
1910年代に調査され,日本における洞窟遺跡の本格調査の最初となった大境(おおさかい)洞窟(氷見市)は富山湾に開口した海食洞で,縄文土器,石器,獣骨・魚骨類などを含む第6層まで6枚の遺物包含層がある。なかで最も厚い第5層では弥生式土器と抜歯や赤色顔料塗布のみられる約20体もの人骨が発見されている。長さ3m,幅30cm,厚さ3cmほどの杉材3枚を並ベた木橋の発見で注目された江上遺跡(中新川郡上市町)では,そのほかにも約3000m2の水田下から鍬,鋤などの農具を中心に,弓矢などの狩猟具,臼,杵,紡錘車,織機の部品など大量の木製品が,弥生後期の畿内第五様式の長頸壺多数とともに出土している。
日本海側で近年発見の相次いでいるいわゆる四隅突出型墳のうち,山陰以北では唯一の例といわれる杉谷4号墳をはじめ,方形周溝墓17,円形周溝墓1を含む杉谷古墳群(富山市)は,北陸における弥生時代末から古墳時代への過渡期の様相を示すものとして重視されている。この古墳群の南西3kmにある羽根山古墳群(富山市)は,上平支群と下平支群で構成されるが,前者は全長75mの前方後方墳の勅使塚(ちよくしづか)古墳と5基の小円墳からなり,後者は全長62mの前方後方墳の王塚古墳と5基の小円墳からなる。このほか木棺直葬をもつ円墳群からなる国分山古墳群(高岡市),帆立貝式古墳を含む前方後円墳と円墳からなる桜谷古墳群(高岡市)などがある。
じょうべのま遺跡(下新川郡入善町)では1970年から74年まで5次にわたる発掘調査の結果,中心のA地区からは平安初期を中心とする21棟分の柱穴,木簡6,墨書土器20などが,L地区からは平安末から室町期までの柱穴,南宋の青磁や白磁などが発見されている。墨書のなかには〈西庄〉と書かれたものも多く,ここが荘家跡かと推察されている。
→越中国
執筆者:狐塚 裕子
富山県は,東西に長くほぼ長方形をなしている。北部は緩い曲線を描く海岸線で,深海性の富山湾に面している。東部は立山,劔岳,薬師岳,白馬岳など標高3000m級の峻峰がそびえる飛驒山脈の北部山地で,その北端は新潟県の親不知(おやしらず)から続く断崖で日本海に臨んでいる。西部は医王山から俱利伽羅(くりから)峠を経て能登半島基部にある宝達(ほうだつ)丘陵に至る丘陵性山地が石川県との県境をなしている。南部は高原性の飛驒高地の北縁部で,ほぼ中央部から呉羽(くれは)丘陵(標高約100m)が突出して富山平野を二分している。県中央部に広がる富山平野(広義)には県人口の大部分が集中し,まとまった生活圏を形成している。富山平野は東部,西部,南部の山地帯から発して北流する黒部川,片貝川,早月川,常願寺川,神通(じんづう)川,庄川,小矢部(おやべ)川によって山麓部に形成された扇状地が,たがいに連接した複合扇状地である。このうち東部の黒部川から常願寺川にかけては,扇状地の末端がそのまま海に接しているが,中部から西部の神通川から庄川,小矢部川にかけては,扇状地の前方にさらに三角州が造成され,連接して複合三角州を形成している。富山湾沿岸では東部から中部にかけて,海岸浸食による陸地の後退が著しい。魚津港沖に見られる海底埋没林(魚津埋没林)は2000年以上前に陸地の沈降によって生じた現象で,特別天然記念物に指定されている。
富山県の気候は日本海側気候に属し,年間降水量が平野部で2500mm前後,南東の飛驒山脈の山岳地帯では4000mmを超える。しかも降水は冬季に集中して山間地では積雪4~6mに達し,日本でも代表的な豪雪地帯となっている。気温は富山市で年平均13.5℃,冬季の平均気温は1月2.1℃で,雪は多いが寒さはそれほど厳しくない。冬季には北西の季節風が卓越するが,春先になると中央脊梁山地を越えてきた強い南風がフェーン現象を起こし,火災,雪崩,融雪,出水などを誘発することがある。山麓扇状地の農家に広く見られる屋敷林は防風,類焼防止などの機能をもっている。また5~6月には富山湾の魚津沖合に蜃気楼(しんきろう)が見られることがある。
富山平野を中心に展開している農業は年産26万t(1996)をあげる米作を中心とするが,95%という全国第1位の兼業率(1996)によって全国有数の農家所得をあげていることに特徴がある。耕地面積のうち水田が95%(1996)を占め,全国平均54%をはるかに上回り,全国第1位である。また米の10a当り平年収量は536tで,全国平均525t(1996)と比べて高水準にある。水田裏作として大正期に導入されたチューリップの球根栽培は富山平野南西部の砺波平野と東部の黒部川扇状地を中心に行われ,国内・国外市場に出荷されている。黒部川扇状地には特産の大型・長楕円体の黒部スイカがある。果樹は魚津市でリンゴ,呉羽丘陵西斜面で梨,ブドウが栽培され,南砺波地方の柿は干柿として出荷されている。
県内の森林面積は県域の約6割(1990)を占め,そのうち国有林が25%を占める。森林種類別ではブナ,ミズナラ,トチノキなどの広葉樹林が6割弱で,杉,アカマツなどの針葉樹林は2割にすぎない。また水源涵養,土砂流失・崩壊防止などの保安林面積は林野総面積の6割以上に及び,全国で最も高率となっている。しかし,広葉樹林の多くは生産性の低い雑木林で,民有林は林野所有規模が零細であるうえに,近年山村の過疎化による林業労務者の不足,高齢化などによって人工造林の拡大,保育などが阻害されている。
漁業の現状は経営体数の88%(1992)が個人経営で,兼業率も9割近い。兼業率が高いのは,富山湾の海岸線が単調なため良好な漁港に恵まれず,しかも背後地で工業化が著しく進んでいるため,在宅通勤による兼業が可能であるからである。沿岸漁業,沖合漁業が漁獲量の9割を占め,イカ,マグロ,ブリ,カニ,エビ,サケ・マスなど,寒流系・暖流系の多種類の魚族が漁獲されている。滑川(なめりかわ)・魚津両市の沖合はホタルイカの群遊海面(特天)となっている。富山湾の大型定置網漁業は江戸時代からの歴史をもち,主として大陸棚が発達している富山湾西方海域に展開している。
富山県の工業は,古い歴史をもつ伝統工業と近代工業が併存していることが特色で,北陸4県では新潟県に次ぐ出荷額を上げている(1995)。第1次大戦を契機として出発した近代工業は,豊富・低廉な電力と工業用水,伏木(ふしき)港や富山港の港湾施設,豊富な労働力,工業用地などに恵まれたため,冬季の積雪や首都圏,中京圏,近畿圏からほぼ等距離にあって大消費地から遠いという不利な条件を克服して発展した。近代工業のうち,鉄鋼(合金鉄),化学,機械,紙・パルプなどの重化学工業部門は,伏木・富山両港の背後地に展開して高岡北部工業地域および富山北部工業地域を形成し,繊維工業を中心とする軽工業部門は小矢部市,砺波市などに立地して内陸工業地域を形成していった。さらに射水市の旧新湊市の放生津(ほうじようづ)潟を利用した掘込み式人工港湾で日本海側有数の規模を誇る富山新港が完成(1968)し,既存の伏木港,富山港(旧,東岩瀬港)と合わせ伏木富山港として重要港湾に指定された。アルミ関連企業,木材関連企業を中心とする富山・高岡新産業都市が建設されて非鉄金属,金属製品,木製品の比重が高まった。また1983年富山・高岡両市を中心に富山テクノポリスに指定され,先端技術産業が進出している。
一方,江戸時代以来の歴史をもつ伝統工業が各地で行われている。高岡市の鋳物・銅器(仏像,仏具,梵鐘(ぼんしよう)など)・捺染(なつせん),南砺市の旧城端(じようはな)町の羽二重,高岡市・魚津市・旧城端町の漆器,富山市の旧八尾(やつお)町,五箇山(ごかやま)の和紙,高岡市の旧福岡町の菅笠,南砺市の旧井波町の木彫(欄間,獅子頭),砺波市の旧庄川町の木製品(盆,菓子器)などがそのおもなものである。とくに反魂丹(はんごんたん)などの名で古くから全国に知られ,富山市,滑川市を中心に行われてきた家庭配置薬は,今日でも昔ながらの先用後利の伝統を持続しながら,和漢薬に現代医薬を取り入れて,県経済に重要な位置を占めている。
県内最初の鉄道は1897年,福野~黒田(高岡市南郊)に開通した民営の中越鉄道(現,JR城端線の一部)である。北陸本線は98年に石川県金沢市方面から高岡まで開通し,翌年には富山まで延長された。北陸本線が親不知トンネルの開削によって全線開通し,信越本線に接続したのは1913年のことである。高山本線は34年に開通した。私鉄は呉東を中心に富山地方鉄道,呉西を中心に加越能(かえつのう)鉄道(2008年現在,すべてバス事業)が地方交通の需要に応じている。道路の大動脈は県域を東西に走る国道8号線で,これを軸として南北に通じる41号,156号,160号線などがある。滋賀県米原(まいはら)市と新潟市を結ぶ北陸自動車道(1996年現在の開通区間は米原~新潟県亀田)が通じている。また富山空港と東京,札幌,名古屋,大阪,福岡などとの間に定期便が就航している。
富山県には山岳と渓谷の自然美に加えて,長い歴史を伝える史跡が数多く分布している。東部の飛驒山脈一帯は中部山岳国立公園となり,薬師岳の圏谷群(特天),立山の山崎圏谷(天)の氷河遺跡もみられる。山地を立山連峰と後立山連峰に二分して北流する黒部川は日本一深い黒部峡谷(特名・特天)を形成している。立山連峰の主峰立山は,平安時代にさかのぼる開山の歴史をもつ信仰の山であるが,立山黒部アルペンルートが1970年に開通して観光客の多い山となった。また庄川上流の五箇山は,平家の落人集落の伝説をもつ隔絶山村で秘境の感が強かったが,最近では国道も整備され,多数の観光客が訪れている。
県域は富山平野のほぼ中央を南西から北東にのびる呉羽丘陵によって,それより以東の呉東,以西の呉西とに二分される。呉東,呉西の呼称は,昭和初期から地理学の分野で使用されたものが一般化したとされる。
呉東は富山市を中心に,滑川,魚津,黒部の3市と中新川,下新川市の2郡の全域を含み,県面積の65%,県人口の57%を占め,人口密度は呉西より低い。一方,呉西は準県都の高岡市を中心に,射水,氷見(ひみ),小矢部,砺波,南砺の5市を含み,県面積の35%,県人口の43%を占める。産業別人口構成では,両地域とも米作農業を基幹としながらも,呉西がより工業化し,呉東は公務・サービス業の比重が高い傾向がみられる。
呉西は奈良時代,伏木に国府が置かれ,また東大寺の荘園が設けられるなど古くから開発が進められてきた。とくに砺波平野は江戸時代,加賀藩の穀倉地帯として藩内で最も豊かな農村地帯であった。〈北陸の大阪〉と呼ばれ,かつては富山市をしのぐ経済力を有した高岡市は,このような豊かな後背地を商圏としてかかえながら発達してきた。一方,呉東の扇状地は,今日でこそ水田化率全国第1位を誇る穀倉地帯であるが,かつては荒蕪(こうぶ)の地で,開発が進められたのは江戸時代以降のことである。しかも山地から流出する融雪水のため灌漑水源の河川の水温が低く稲の生育がさまたげられ,生産性はきわめて低かった。生産性が飛躍的に増大したのは,第2次大戦後,流水客土工事が行われてからである。このような歴史的・風土的な違いはそれぞれの地域特有の住民意識を生み,一面では競争心が相互の発展を促進してきたが,ときには必要以上の対抗意識が弊害を生むこともあった。しかし近年の交通の発達,著しい都市化による両地域の一体的発展,住民意識の均質化によって,呉東・呉西という地域区分の意義はしだいに失われつつある。
執筆者:二神 弘
富山県中央部の市で県庁所在都市。2005年4月旧富山市と大沢野(おおさわの),大山(おおやま),婦中(ふちゆう),八尾(やつお)の4町およに細入(ほそいり),山田(やまだ)の2村が合体して成立した。人口42万1953(2010)。
富山市中南部の旧町。旧上新川(かみにいかわ)郡所属。人口2万2642(2000)。神通(じんつう)川が飛驒山脈から富山平野に流れ出る谷口に位置する。北部は段丘化した扇状地が占め,南部は神通川東岸の飛驒山脈北縁にあたる山地が占める。中心地の笹津は谷口集落で,飛驒街道の宿場町として発達,南北7kmに及ぶ街村がみられる。江戸時代中期に神通川から取水する用水路の開削が始まり,後期に新田開発が進んだが,扇状地一帯が水田化したのは昭和初期である。明治末期から神通川の電源開発が進められ,高山本線の開通とあいまって,安価な余剰電力と農村労働力を利用した炭素電極,紡績などの工場が昭和初期に立地した。第2次世界大戦後は国道41号線沿線に工場が進出した。近年は旧富山市への通勤者が増えている。上流の神岡鉱山の排水によって水田土壌が重金属で汚染され,イタイイタイ病の被害を受けた。
富山市東部の旧町。旧上新川郡所属。人口1万1652(2000)。町域の大部分は常願寺川,黒部川の源流部の山地で,飛驒山脈を境に長野県,岐阜県と接する。中心集落の上滝は常願寺川の谷口に位置する市場町として発達した。富山地方鉄道立山線が通じ,付近には曹洞宗の名刹(めいさつ)大山寺や遊園地がある。常願寺川西岸の扇状地は水田になっている。常願寺川の支流和田川上流には有峰ダム(有峰湖)が建設され,水力発電所も多い。有峰湖周辺の観光開発が進められ,町内には極楽坂,粟巣野などのスキー場がある。薬師岳の圏谷(カール)群は特別天然記念物。
執筆者:千葉 立也
富山市北部の旧市で,県庁所在都市。富山湾に臨む。1889年市制。人口32万5700(2000)。県の政治・経済・文化の中心をなす。市域は富山平野のほぼ中央にあり,神通川と常願寺川の形成する複合扇状地と西側の呉羽(くれは)丘陵からなる。中心市街地は,近世には富山藩の城下町として栄えたところで,北陸街道と飛驒街道の分岐点にあたる交通の要衝でもあった。鉄道は1899年北陸本線富山~敦賀間,1934年高山本線が開通して分岐点となり,関西,中京とのつながりが強められた。富山地方鉄道やJR富山港(現,富山ライトレール富山港線)線も通じ,周辺からの通勤・通学客も多い。かつて市域を迂回していた神通川の洪水に古くから悩まされてきたため,明治末期から河道を直行させる工事が行われた。大正から昭和にかけて河道の埋立てが行われ,旧河道は県庁を中心とする都市機能の集中する地域として整備された。また埋立てに要した土砂は東岩瀬港(現,富山港)から北陸本線富山駅北まで神通川の東岸に並行する富岩(ふがん)運河(1934完成)を掘ることによってまかなう方法をとったため,この運河が旧富山市の工業立地に大きな役割を果たすことになった。
昭和初期から本格的な工業立地が始まり,化学,アルミニウム,パルプ,合金鉄などの近代工業が進出した。1935年ころから満州(中国東北)との貿易が盛んとなり,近世に西廻海運の寄航地であった富山港は,第2次大戦中にも富山港と富岩運河沿いに北部工業地域の形成が進められたが,空襲により市街地の大部分を消失し,戦後新しい都市計画により近代都市として再生した。富山港はその後整備されて,伏木港(現,高岡市),富山新港(現,射水市)とともに1968年に指定された特定重要港湾伏木富山港の一部として発展した。95年現在,化学,一般機械,輸送用機械などの工業が盛んで,日本海沿岸屈指の工業都市となった。近世以来の歴史をもつ反魂丹(はんごんたん)などの家庭配置薬にもとづく製薬工業は,今も重要な位置を占める。富山城跡公園,藩校広徳館跡,藩主前田家歴代の墓所長岡廟所,呉羽山公園などがある。北陸自動車道が通じ,南郊に富山空港がある。
執筆者:藤森 勉
地名の初出は1398年(応永5)の〈吉見詮頼寄進状〉で,富山郷とみえる。戦国動乱の中で戦略上の要所となり,永正(1504-21)のころ水越越前守勝重が築城したという。のち神保氏,また佐々成政が居城,1587年(天正15)以来,前田利長が支配したが,1609年(慶長14)に焼失した。当時,北陸街道は神通川を舟橋村から富山町の小島町に渡り,片原町を経て柳町に抜けており,城下町は北陸街道に沿って展開していた。39年(寛永16)に加賀藩主前田利常の子利次が富山藩10万石を分藩された。利次は加賀藩の富山城を借城し,59年(万治2)に分散していた土地を富山町辺の新川郡と替地し,翌年より富山町を藩都とし,61年(寛文1)富山城を修築し,城下を本格的に再編成した。富山町の南限に北陸街道を移し,その南西部に武家町,南東部に寺町を,富山城の東に町人町を置き,本町35町,田地方町29町,舟橋向8町に区分した。そして加賀藩時代の経済体制からの脱却をはかった。数万俵の瀬戸内塩,能登塩を取り扱う塩問屋を金沢町人から富山町人の手に移し,修験道売薬を差し止め,反魂丹を主とする富山町人による商業売薬を始めて富山売薬の基礎をつくり,繰綿,藍玉をはじめ各種の営業特権を富山町人に与えていった。富山は陸海交通の要所で,飛驒街道を分岐し,また神通川に面する木町舟方は早くから栄えていた。
町政は富山町奉行のもとに町年寄,町肝煎と各町ごとの町頭が担当した。町方人口は1676年(延宝4)に1万6210人,1810年(文化7)に2万7388人となる。家中人口は1676年に7700人,1810年に6840人であった。
執筆者:高瀬 保
富山市北西部の旧町。旧婦負(ねい)郡所属。人口3万4528(2000)。神通川下流西岸にあり,神通川とその支流井田川の扇状地を占め,西部は丘陵地である。中心集落の速星(はやほし)は,1927年の飛越線(現,JR高山本線)開通と,それを契機とした翌28年の化学肥料工場の進出により急速に発展した。水利に恵まれる平地は米作主体の農業が行われるが,近年は隣接する旧富山市の近郊住宅地化が進んでいる。丘陵地帯に王塚古墳(史)をはじめとする古墳群や木造十一面観音立像(重要文化財)を有する常楽寺などがある。神通川から取水し,灌漑していた地区を中心に,第2次大戦後イタイイタイ病が発生し,多くの犠牲者を出した。
富山市南部の旧村。旧婦負郡所属。人口1923(2000)。神通川中流西岸にあり,飛驒高地北縁部の山地にある。飛驒街道(現,国道41号線)の難所で,江戸時代には猪谷(いのたに)に富山藩の関所が置かれていた。楡原(にれはら)を中心とする北部は日蓮宗が,猪谷を中心とする南部は禅宗が盛んで,地域性がみられる。第2次大戦後,神通川の電源開発工事と国道の改修工事が行われ,土木工事の日雇稼ぎは村民の生活を変えた。神通川の峡谷には三つのダムがあり,一帯は神通峡とよばれる景勝地である。神通川に沿ってJR高山本線,国道41号線が通じ,旧富山市への通勤者がふえている。なお猪谷の背斜・向斜は天然記念物。
富山市南西部の旧町。旧婦負郡所属。人口2万2322(2000)。神通川の支流井田川の上流域,飛驒高地北縁の山地が富山平野に接するところにある。中心集落の八尾は井田川の河岸段丘上にある谷口集落であったが,1636年(寛永13)真宗聞名(もんみよう)寺の門前町として町立てされた。毎月2・5・8の日に九斎市が立ち,婦負地方の中心であった。富山売薬の包装に用いられた八尾和紙の製造も売薬の普及とともに盛んになった。町域の8割は山林であるが,米作,野菜栽培が行われ,1960年の機械工業センター誘致後は工業開発も進んでいる。毎年9月1~3日は〈風の盆〉といい,この地発祥の《越中おわら節》が歌われ,町中総出で盆踊が行われる。八尾和紙は民芸品として現在もつくられる。JR高山本線が通じる。
富山市西端の旧村。旧婦負郡所属。人口2037(2000)。飛驒高地から続く山地が大部分を占め,中央を神通川の支流山田川が北流する。近世には加賀藩領を経て,1639年(寛永16)以後は富山藩領であった。宿坊(すくぼう)は南方の金剛堂山への修験者の宿坊が近世にあった地である。第2次大戦後,人口流出が著しく,25あった集落のうち4集落が廃村となった。1962年から県営事業により開田が進められたが,土木工事の日雇いが主な収入源であった。過疎対策として牛岳山麓に村営スキー場がつくられている。中心集落である湯付近に山田温泉(食塩泉,45~47℃)がある。
執筆者:千葉 立也
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…旧国名。現在の富山県全域にあたる。
【古代】
北陸道に属する上国(《延喜式》)。…
…旧国名。現在の富山県全域にあたる。
【古代】
北陸道に属する上国(《延喜式》)。…
…越中国新川郡(現,富山市),神通川河口右岸の地名。古代からの交通の要所で,《延喜式》に磐瀬駅が見えるが,東岩瀬の初見は1572年(元亀3)。…
…越中国(富山県)新川郡,常願寺川河口の港町。《延喜式》に水橋駅が見え,古くから渡河点として北陸道の要衝であった。…
※「富山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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