新田義貞墓(読み)につたよしさだのはか

日本歴史地名大系 「新田義貞墓」の解説

新田義貞墓
につたよしさだのはか

称念寺境内北側にある。延元三年(一三三八)閏七月二日、細川孝基軍と戦った新田義貞は灯明寺畷とうみようじなわて(現福井市)で自害したのち、称念寺に葬られた。「太平記」巻二〇(新田義貞自害事)は、氏家中務丞の取った首を見た斯波高経が「サテハ義貞ノ頸相違ナカリケリトテ、尸骸ヲ輿ニ乗セ時衆八人ニカヽセテ、葬礼ノ為ニ往生院ヘ送ラレ、頸ヲバ朱ノ唐櫃ニ入レ、氏家ノ中務ヲ副テ、潜ニ京都ヘ上セラレケリ」と記している。また義貞の近習が「心モ発ラヌ出家シテ、往生院長崎ノ道場ニ入」ったとも記している。万治年中(一六五八―六一)徳川氏がその遠祖を新田義貞と定めて以来、徳川家および松平家から特別の保護を受け、初め五輪塔にすぎなかったものを福井藩主松平宗矩が墓所改築、享保一七年(一七三二)にはその家老本多修理によって石碑が建立された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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