日本歴史地名大系 「長崎村」の解説
長崎村
ながさきむら
現町域の北東部に位置する。山形盆地のほぼ中央西部、最上川の南岸にあたり、東側を
伊達輝宗日記(伊達家文書)天正二年(一五七四)六月一二日条に長崎とみえる。元和八年(一六二二)山形藩領となり、正保元年(一六四四)幕府領、寛保二年(一七四二)からは米沢藩預地となり、宝暦三年(一七五三)幕府直轄領に復し、天保一三年(一八四二)から一部が山形藩領となる。二給となったために組分けもそれまでの東・中・西の三組から東・西の二組に変わっている(細谷文書)。寛永一三年(一六三六)の保科氏領知目録に村名がみえ、高三千三五八石余。享保一二年(一七二七)の御料村々高寄帳(阿部文書)では高三千三九八石余。
長崎村
ながさきむら
正保郷帳に村名がみえ、田一八九貫八一四文・畑二〇貫二〇文で、ほかに新田九八二文とある。
長崎村
ながさきむら
慶長一七年(一六一二)の検地帳(貝瀬文書)では、村高は二七四石五斗余。
長崎村
ながさきむら
- 長崎県:長崎市
- 長崎村
現長崎市域のほぼ中央部に位置する。中世は
長崎村
ながさきむら
天正一二年(一五八四)六月一一日の目村算用状写(当摩文書)に五二六俵二斗「長崎分ちくてん」と記され、もとは目村に含まれていた。同一三年六月一八日の免定写(同文書)には村名はなく、同二〇年八月一五日の向田白山宮建立棟札(伊夜比神社蔵)に再び村名が現れることから、退転後目村の持添えとして成立ち、村肝煎も目村肝煎が兼帯し、目村の寄村的存在の村となったと考えられる。
長崎村
ながさきむら
- 東京都:豊島区
- 長崎村
池袋村の西にあり、北は上板橋村(現板橋区)、南は
長崎村
ながさきむら
- 山口県:下関市
- 長崎村
現下関市の南西部にあたり、東は
「地下上申」に「長府領之内細川宮内領・豊浦郡長崎村境目書」とみえる。
明治二年(一八六九)調べの旧高旧領取調帳における石高は一四〇石余である。
長崎村
ながさきむら
長崎村
ながさきむら
長崎村
ながさきむら
長崎村
ながさきむら
長崎村
ながさきむら
- 千葉県:富津市
- 長崎村
長崎村
ながさきむら
長崎村
ながさきむら
長崎村
ながさきむら
長崎村
ながさきむら
- 福岡県:筑後市
- 長崎村
長崎村
ながさきむら
長崎村
ながさきむら
長崎村
ながさきむら
長崎村
ながさきむら
長崎村
ながさきむら
長崎村
ながさきむら
長崎村
ながさきむら
長崎村
ながさきむら
- 熊本県:水俣市
- 長崎村
長崎村
ながさきむら
- 新潟県:柏崎市
- 長崎村
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報