長崎村(読み)ながさきむら

日本歴史地名大系 「長崎村」の解説

長崎村
ながさきむら

[現在地名]中山町長崎、山形市長崎

現町域の北東部に位置する。山形盆地のほぼ中央西部、最上川の南岸にあたり、東側を川が北流する。月山南麓を経て山形城下つるおか城下とを結ぶ六十里越街道が南北に通り、同街道は当地で最上川を渡河、寒河江さがえを経て本道寺ほんどうじ(現西村山郡西川町)方面へと向かう。また当地から西方に向かい、高擶たかだま(現天童市)を経て山寺立石やまでらりつしやく(現山形市)方面へ至る道、最上川を渡河せず同川右岸沿いに東方へ向かい、左沢あてらざわ(最上川左岸、現西村山郡大江町)を経て大井沢おおいさわ(現西川町)方面へ至る道などが分岐した。最上川沿いには河岸場も設けられるなど水陸交通の要衝であり、ほん町・かん町・なか町・やなぎ町などの町場も形成され、六斎市の立つ在郷町として近隣の物資集散地となった。また元禄六年(一六九三)には寒河江代官所出張所として長崎陣屋が置かれた。枝郷として文右衛門新田ぶんえもんしんでん落合おちあい三軒屋さんげんやがある。

伊達輝宗日記(伊達家文書)天正二年(一五七四)六月一二日条に長崎とみえる。元和八年(一六二二)山形藩領となり、正保元年(一六四四)幕府領、寛保二年(一七四二)からは米沢藩預地となり、宝暦三年(一七五三)幕府直轄領に復し、天保一三年(一八四二)から一部が山形藩領となる。二給となったために組分けもそれまでの東・中・西の三組から東・西の二組に変わっている(細谷文書)。寛永一三年(一六三六)の保科氏領知目録に村名がみえ、高三千三五八石余。享保一二年(一七二七)の御料村々高寄帳(阿部文書)では高三千三九八石余。


長崎村
ながさきむら

[現在地名]一迫町 江合田えあいだ岡田おかだ萩生はぎう高橋たかはし荒屋敷あらやしき日向ひなた平館ひらたて佐野原さのはら上小僧かみこぞう中小僧なかこぞう荒町あらまち上大土かみおおど論田ろんでんなど

真坂まさか村の西方一帯で、集落は東流する長崎川沿いに集中し、西に小僧荒町こぞうあらまちという宿場がある。その南西の大土を過ぎると玉造たまつくり郡境。南は大川口おおかわぐち村、北は清水目しずのめ村。村名は藤原秀衡家臣の長崎四郎隆実の領地であったことに由来すると伝える。「仙台領古城書上」に長崎四郎を城主とする長崎城が記され、「安永風土記」では長崎四郎隆実を館主とする鹿ししはな館・小坂元こさかもと館・さかい館・鹿籠ししごめ館・佐野さの館をあげる。長崎城跡とされる所に二段の平場があり、空堀・土塁がみられる。鹿籠館の跡とされる平場には段築・空堀がうかがえる。なお長崎氏を永正一一年(一五一四)の「余目記録」にみえる「大崎ヲ守候外様ハ、留守、八幡、国分(中略)二迫、長崎、和賀」のうちの長崎氏とする説があるが未詳。またこれより先康正元年(一四五五)七月二八日の某宛行状(真山文書)に「今度長崎四郎就滅亡、子息鶴千代進退言上之儀神妙覚之」とみえ、同氏とも考えられる。

正保郷帳に村名がみえ、田一八九貫八一四文・畑二〇貫二〇文で、ほかに新田九八二文とある。


長崎村
ながさきむら

[現在地名]塩沢町長崎

のぼり川中流右岸の河谷平地に立地。登川右岸には支流姥沢うばさわ川と魚野うおの川支流高棚こうたな川が流れる。北方下流域は枝吉えだよし村・早川はやかわ村・八竜はちりゆう新田、南の上流は姥沢新田、東は金城きんじよう山山麓が続き、長松ながまつ(現六日町)と境する。集落は清水しみず道沿いに槻岡つきおか(月岡)大福寺だいふくじ上神字かみかんじ・上長崎の支集落がある(新編会津風土記)が、現在ではさらに原芝野はらしばの横新田よこしんでん広道ひろみち中之島なかのしま欠之下かけのした金清坊こんせいぼうの諸集落で構成される。文明一七年(一四八五)二月九日の長慶庵領年貢取帳(龍泉院文書)には「長崎弥五郎前」などとみえ、大木六の長慶おおきろくのちようけい(現龍泉院)の寺領があった。

慶長一七年(一六一二)の検地帳(貝瀬文書)では、村高は二七四石五斗余。


長崎村
ながさきむら

現長崎市域のほぼ中央部に位置する。中世は彼杵そのき庄のうちで、永崎・長崎とみえる。元亀元年(一五七〇)ポルトガルとの貿易港となり、長崎町六ヵ町が形成された。天正八年(一五八〇)大村純忠は長崎町をイエズス会に寄進、教会領となった。同一五年の九州仕置に伴い長崎町・浦上うらかみ村・家野よの村・外目そとめ村が公領(豊臣秀吉の直轄領)となる。のち大村氏の再三の訴えで長崎村は大村領となり、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦後には大村氏に安堵され、同一〇年三月の大村領内高目録に長崎村として高八二〇石余とあり、田五〇町三反余・畠三〇町、物成四五一石余。同年九月に長崎新町(外町)とその属邑、つまり長崎村内は浦上西うらかみにし村など六ヵ村と交換、以後幕府領となったという(「大村家記」など)。これ以後長崎代官支配として幕末に至る。慶長国絵図では高一千八九八石余。正保国絵図では長崎村の記載がなく、村内の九ヵ村が独立して記され、「寛宝日記」延宝九年(一六八一)条では長崎村一千六四石余とする。


長崎村
ながさきむら

[現在地名]能登島町長崎

えのめ村の南西一五町にある海岸沿いの村。寛正六年(一四六五)二月二三日の向田こうだ八幡宮の棟札(伊夜比神社蔵)に、奉加衆として長崎左衛門太郎がみえる。また戦国後期頃には遊佐氏と西方氏の所領とされていた(「能登内浦村々給人注文写」諸橋文書)

天正一二年(一五八四)六月一一日の目村算用状写(当摩文書)に五二六俵二斗「長崎分ちくてん」と記され、もとは目村に含まれていた。同一三年六月一八日の免定写(同文書)には村名はなく、同二〇年八月一五日の向田白山宮建立棟札(伊夜比神社蔵)に再び村名が現れることから、退転後目村の持添えとして成立ち、村肝煎も目村肝煎が兼帯し、目村の寄村的存在の村となったと考えられる。


長崎村
ながさきむら

[現在地名]豊島区長崎一―六丁目・南長崎みなみながさき一―六丁目・千早ちはや一―四丁目・要町かなめちよう一―三丁目・千川せんかわ一―二丁目・高松たかまつ一―三丁目・目白めじろ四―五丁目・西池袋にしいけぶくろ四―五丁目など

池袋村の西にあり、北は上板橋村(現板橋区)、南は下落合しもおちあい(現新宿区)など。村の北部を千川上水(元禄九年開削)が東流し、当地で同上水から分れる分水は谷端やばた川に落水した。南部を目白台(現文京区)方面から練馬方面に通じる道(清戸道、現目白通)が東西に走る。北条氏所領役帳では江戸衆の太田新六郎康資が江戸「長崎」一七貫三〇文を知行している。寛永二年(一六二五)木村宗綱は長崎村で高四〇石余、長崎・堀内開発地で高八二石余などを与えられ、同四年には大草正重が同じく当村で高四三石余、高田・長崎開発地で高二〇石余などを与えられている(以上、記録御用所本古文書)


長崎村
ながさきむら

[現在地名]下関市長崎本町ながさきほんまち笹山ささやま町・関西本町かんせいほんまち長崎新町ながさきしんまち上条うえじよう町の各全域、および長崎町一丁目・西神田にしかんだ町・関西かんせい町・長崎中央ながさきちゆうおう町・豊前田ぶぜんだ町一丁目・長門町ながとまち桜山さくらやま町・上新地かみしんち町一丁目・新地しんち町・今浦いまうら町の各一部

現下関市の南西部にあたり、東は赤間関あかまがせき赤間関後地あかまがせきうしろじ、南は竹崎たけざき浦・豊前田、西は今浦、北は大坪おおつぼ村の各村に接する。

「地下上申」に「長府領之内細川宮内領・豊浦郡長崎村境目書」とみえる。

明治二年(一八六九)調べの旧高旧領取調帳における石高は一四〇石余である。


長崎村
ながさきむら

[現在地名]清水市長崎・長崎南町ながさきみなみちよう草薙一里山くさなぎいちりやま

くすのき村の東、ともえ川中流右岸、草薙くさなぎ川が北流して巴川に合流する付近に集落がある。東は長崎新田。寛永九年(一六三二)から幕府領、国立史料館本元禄郷帳では旗本天方領、元文元年(一七三六)旗本酒井領、安永六年(一七七七)から旗本秋山領と酒井領の相給となり、幕末に至る(旧高旧領取調帳など)。元禄郷帳では高三九三石余。安永四年の村明細帳(望月家文書)によれば、高四一三石余、うち田方三五四石余・反別三五町四反余、畑方五九石余・反別七町八反余、屋敷六石八斗余・反別六反余、ほかに見取新畑一三石・反別一町八反余。


長崎村
ながさきむら

[現在地名]流山市長崎一―二丁目・野々下ののした一―六丁目

近世初期に野々下村から同村幕府領が分郷して成立。以後同領で幕末に至る(旧高旧領取調帳)。元和五年(一六一九)の小金領野馬売付帳(染谷家文書)に村名がみえる。正保四年(一六四七)の年貢割付状(根本家文書)によると反別は上田二反余・中田二反余・下田四町六反余、上畑二反余・中畑一反余・下畑六反余、屋敷一反余で、年貢高九石余。野々下村とは入会郷で田地も双方入交じっていた。元文四年(一七三九)には高三七石余、六町九反余、名主一・百姓三・水呑二・寺一。


長崎村
ながさきむら

[現在地名]利賀村長崎

北原きたばら村の南、庄川右岸の山腹に位置し、東は庄川と利賀川の分水嶺。正保郷帳に村名がみえ高八二石余、畑方のみで五町五反余。明暦二年(一六五六)の免四ツ二厘六毛、同年以後、納所金子一四両一匁二分余、塩硝役金子四匁三分余・手上金子三匁一分余、蝋・漆・蓑・紙役金子三匁八分余、計一六両三匁七分余を課せられており、この代銀七八三匁七分余を夏成・冬成の両度に納めた(天保一〇年「草高免付百姓数品々帳」利賀村公民館蔵)


長崎村
ながさきむら

[現在地名]下田村長野ながの

守門すもん川下流、五十嵐いからし川との合流点付近の段丘上に位置する。五十嵐川対岸には、同川の浸食によって形成された石英安山岩の断崖八木鼻やぎはながある。現在の長野は近世には長崎村・中野なかの村の二村で、今も小字に両村名が残るが村域不明。正保国絵図では高六二石余。正保(一六四四―四八)初年の物成高を記した「初免石」(「村松小史」渡辺芳江氏蔵)では三一石八斗余・家一二戸。文化一一年(一八一四)の森町組家数書上帳(金子泰夫氏蔵)では家数二四。延享三年(一七四六)、長崎・中野・名下みようげの三村と大谷おおたに村など三ヵ村との間に入会山論があった。同年春の裁許では、論所おお山は六ヵ村入会となっている(皆川家文書)


長崎村
ながさきむら

[現在地名]富津市長崎

花輪はなわ村の東方に位置し、みなと川が流れる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高三八四石。寛文四年(一六六四)の松平重利領知目録(寛文朱印留)に村名がみえ、下野皆川藩領。元禄郷帳では高四〇二石余で、幕末まで変わらない。宝永七年(一七一〇)から佐貫藩領。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高四〇二石余で家数四五、佐貫藩領と旗本金田領。旧高旧領取調帳では佐貫藩領。享保一三年(一七二八)当時大森おおもり村と当村は近隣四〇村から村八分の扱いを受けていた(三浦家文書)。文政一一年(一八二八)海良かいら村などと梨沢なしざわ村との間で秣場をめぐり争論を起こしている(長崎区有文書)


長崎村
ながさきむら

[現在地名]丸岡町長崎

丸岡城下の西方、北陸街道に沿う村。北は舟寄ふなよせ村。中世は長崎庄に含まれた地。村名は慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図にみえ、正保郷帳によれば田方一七六石余・畠方四一一石余。福井藩領。

当村は舟寄村とともに、北の金津かなづ宿(現金津町)と南の舟橋ふなばし宿(現福井市)との中間に位置する北陸街道の一宿駅で、文禄二年(一五九三)九月一日付堀秀治伝馬掟書(竜田家文書)には「公儀為御用被仰出伝馬之儀、如有来金津より長崎へ相着、長崎より舟橋へ相届」とみえる。


長崎村
ながさきむら

[現在地名]不知火町長崎

東は浦上うらがみ村、西は永尾えいのお村、北は宮荘みやのしよう(現宇土市)に接し、南は八代海に面する。東は平坦地で西・南・北は山林。村の中央に宮元みやのもと、東に梅木うめのき、北に米山こめのやま、西に五反田ごたんだなどの字地がみえる(郡村誌)。慶長国絵図に村名がみえ、近世は郡浦手永に属した。正保郷帳では田方六七六石三斗余で「はへ山有」とあり、畠方一五六石七斗余。天保八年(一八三七)の郡浦手永略手鑑によると、宇土知行所の村で竈数九一・人数四五二・役男一〇七、本方高五五七石八斗余、田二三町七反余・畑一一町三反余、新地田畑八反余、永荒田二町九反余、諸開五反余と茶床がある。


長崎村
ながさきむら

[現在地名]鶴岡市長崎

西茅原にしちわら村の南、砂丘東方にある。初め西の砂丘付近にあったが、飛砂の被害で田畑・屋敷とも埋まり、徐々に東へ移転したと伝える。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録に村名がみえ高二〇〇石余。寛永元年庄内高辻帳では三〇一石余。正保郷帳では永崎村とみえ田高四六九石余・畑高八石余、新田がある。弍郡詳記では高三七二石余、免五ツ三分五厘、家数四一。用水は砂丘麓に湧出する清水の長崎溜池に依存する。砂留簀垣工事も早くから施されていたが、貞享年間(一六八四―八八)には砂埋りで畑地がなくなり、砂丘東麓の馬町うままち村阿部助治郎所有の小沼谷地こぬまやち一町余を譲り受け、西茅原村と共同で開拓した(西郷村史)


長崎村
ながさきむら

[現在地名]筑後市長崎

庄島しようじま村の東、花宗はなむね川中流右岸に位置する。東は和泉いずみ村。本高は二一九石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高三六〇石・役高三二九石。享和二年(一八〇二)の春免高帳によると高三三一石。文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田一八町五反余・畑田一町余・畑一二町四反余・居屋敷四反余。旧高旧領取調帳では高五七二石余。慶安二年(一六四九)当村庄屋太左衛門は、和泉村庄屋八郎右衛門とともに高江たかえ村大庄屋解任後の大庄屋代となる(家勤記得集)


長崎村
ながさきむら

[現在地名]蓮田市黒浜くろはま

元荒川の左岸、黒浜村の東にあり、東はさき村。古くは黒浜村に含まれたが、江ヶ崎村の村民が開墾して一村をなしたといわれ(風土記稿)、元禄期(一六八八―一七〇四)までに分村したと考えられる(貞享三年の岩槻藩領郷村高帳など)。岩槻藩領で幕末まで変わらず。延宝八年(一六八〇)の岩付領内村名石高家数人数寄帳(吉田家文書)に村名がみえ、高二三石余、家数七(すべて本百姓)、人数七〇。元禄郷帳・天保郷帳では村名に黒浜村枝郷と肩書される。


長崎村
ながさきむら

[現在地名]韮山町長崎

原木ばらき村の東に位置する。中世は長崎郷と称された。近世初頭は韮山城主内藤信成領で、慶長三年(一五九八)検地を受け、同年の田畑名寄帳写(石井家文書)によると惣高三二三石余、ほかに永々荒地高一二石余がある。寛永三年(一六二六)の年貢割付状(土屋家文書)では田二〇町一反余・畑一六町六反余。慶長六年からは幕府領、元禄一一年(一六九八)の地方直しで旗本酒井・高田・三宅・久野・武島、能勢二家の七家の相給となり、寛政期(一七八九―一八〇一)には能勢領の一つが幕府領となり、天保期(一八三〇―四四)には幕府領は消滅して旗本酒井領がさらに一つ加わって幕末に至る(「韮山町史」など)


長崎村
ながさきむら

[現在地名]大潟町長崎

北西は岩野いわの古新田、東は里鵜島さとうじま新田に接し、北から北東にかけてノ池に囲まれる。天正一三年(一五八五)以降のものと思われる正月二八日付の本願寺(顕如カ)印判状写(本覚坊文書)に村名がみえ、当村の門徒が他の二七ヵ村の門徒とともに懇志五〇疋を本願寺へ進上していた。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「御料所宮嶋与八郎分柿崎分長崎村 下」とみえ、本納二九石四斗一升六合・縄高四七石七斗二升三合、家一三軒・三六人とある。


長崎村
ながさきむら

[現在地名]小松市長崎町

かけはし川河口右岸の低地にあり、南西は安宅あたか町、南は小島こじま村、西は砂丘を隔てて日本海。中世は長崎保・長前保と称した。正保郷帳では高一千二六石余、田方五三町二反余・畑方七町一反余、新田二九石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高七二七石余、免四ツ五分、小物成は板船櫂役一五匁(退転)、葭役八九匁(三箇国高物成帳)。正徳三年(一七一三)と天保五年(一八三四)の高はともに一千二六石余、免四ツ五分(小松市史)


長崎村
ながさきむら

[現在地名]蘇陽町長崎

川上流の右岸一帯にあり、東は日向国臼杵うすき郡、西はいま村・米山こめのやま村、北は花寺はなでら村、南は馬見原まみはら町に接する。文明一六年(一四八四)八月二八日の阿蘇十二社同霜宮最花米注文(阿蘇家文書)に「一所なかさき二百文 まめ一斗 一所とち原二百文 まめ一斗」とあり、近世の小村である栃原とちばるとともに、銭二〇〇文・豆一斗を負担している。


長崎村
ながさきむら

[現在地名]芦北町丸山まるやま

かじさこ村の上流にあり、さらに上流は豊尺てじやく村となる。近世初期には久野川くのかわ村に含まれていたと思われ、寛永一〇年(一六三三)の人畜改帳の久野川村の項に長崎があり、助七郎という四五歳の人物が妻と娘、四六歳の名子喜太郎、その母と住んでいた。湯浦手永に属し、延宝三年(一六七五)の葦北郡湯浦手永小村限御帳(芦北町誌)によれば、男女一二、うち女五、一五歳より六〇歳までの男四、竈数二、馬一とある。


長崎村
ながさきむら

[現在地名]黒石市追子野木おこのき 長崎

黒石城下東端の山形やまがた町の崖下にあり、浅瀬石あせいし川対岸は浅瀬石村。集落は館跡につくられ、千徳氏時代には中村氏が領主であったという(山形郷土物語)。藩政時代には追子野木おつこのき村の支村で、弘前藩猿賀組に属した。貞享四年(一六八七)の追子野木村の検地帳には「追子野木村枝村長崎村」とあり、田方四町五反二畝八歩、三四・九七八石、畑方二町七反三畝二〇歩、一一・六一石とあり、付記として「享保十一年本村に御立被成候」とある。


長崎村
ながさきむら

[現在地名]水俣市長崎

湯出ゆのつる川支流の野川のがわ川の流域にあり、西に同水系の野川村、南に茂川もがわ村、東北に大窪おおくぼ村がある。寛永一六年(一六三九)の葦北郡地侍御知行割帳(徳富文書)に「袋村内長崎村」とみえ、地侍一名が記される。


長崎村
ながさきむら

[現在地名]柏崎市長崎

別山べつやま川の下流北岸にある。近世は元和二年(一六一六)より同四年まで長峰藩牧野忠成領のほかは高田藩に属し、稲葉正通以後幕府領、宝永六年(一七〇九)旗本安藤氏の知行地。正保国絵図に高二二二石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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