明恵紀州遺跡率都婆(読み)みょうえきしゅういせきそとうば

国指定史跡ガイド 「明恵紀州遺跡率都婆」の解説

みょうえきしゅういせきそとうば【明恵紀州遺跡率都婆】


和歌山県有田市星尾、有田郡湯浅町栖原・有田川町歓喜寺にある卒塔婆(そとうば)で、別称「明恵上人紀州八所遺跡」。明恵上人は1173年(承安3)に紀伊国有田郡石垣庄吉原村(現在の有田川町歓喜寺)で生まれ、1181年(治承5)に京都の神護寺に入って修行を重ね東大寺尊勝院で華厳経を学んだが、郷里に帰り、耳を切り落とすという厳しい修行を重ねた。1206年(元久3)には後鳥羽上皇から栂尾山(とがのおさん)を賜り高山寺を創建して華厳宗興隆の道場と定めた。上人が没した後、弟子の喜海が上人の修行した草庵跡7ヵ所と誕生の地に木製の塔婆建立したが、腐朽したため勧進比丘弁迂(べんう)が一族を勧進し、砂岩製の笠塔婆を建立。1931年(昭和6)、塔婆が不明の崎山遺跡を除き国の史跡に指定された。それぞれの塔婆は砂岩の一材から彫り出されたもので、高さは1.5mから1.7m。1965年(昭和40)から塔婆の樹脂による接合などの保存修理や環境整備が行われた。JR紀勢本線紀伊宮原駅から車で約10分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報