日本歴史地名大系 「明辺村」の解説 明辺村あけなべむら 鳥取県:八頭郡郡家町明辺村[現在地名]郡家町明辺落岩(おちいわ)村の北東山中、私都(きさいち)川の支流の谷に位置する。明野辺とも書き、平家落人伝説がある。元禄一四年(一七〇一)の変地其外相改目録(県立博物館蔵)に、正保国絵図・正保郷帳には明延村と収載したが、元禄国絵図・元禄郷帳作成に際し明辺村と改めたとある。天正五年(一五七七)一二月二一日の毛利豊元宛行状(因幡民談記)に「私部上ノ郷」のうち「明辺村」とみえ、当村内の石田名などが姫地玄蕃允に与えられている。寛永一〇年(一六三三)の「私部谷ノ内明延村」の田畑地詰帳写(岡崎家文書)によると田四町六反余・畑三町五反余(うち屋敷七畝余)、屋敷数一五。藩政期の拝領高は七〇石余。本免五ツ七分。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「因幡誌」によると高九〇石余、竈数五〇(史料のママ)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報