日本歴史地名大系 「服部興屋村」の解説 服部興屋村はつとりこうやむら 山形県:飽海郡遊佐町服部興屋村[現在地名]遊佐町比子(ひこ)青塚(あおづか)村の北にあり、庄内海岸の砂丘上に位置し、北は十里塚(じゆうりづか)村。浜(はま)街道が通り、村西端には浜茶屋があった。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録、寛永元年庄内高辻帳ともに村名なし。寛永六年(一六二九)外野(との)村(現酒田市)のうち高一三石余が当村に配された(「外野村肝煎目安返答書」高橋文書)。正保庄内絵図(本間美術館蔵)には服部興谷とある。貞享年間(一六八四―八八)の村組付(飽海郡誌)では高三〇石余、家数二一。うち御役下一八で、大組頭は弥八郎。延享三年(一七四六)の名寄帳(遊佐町史)では名請人のうち高持二九で、高の最も多いのは藤助三石余、庄左衛門三石余、以下一石以上三石未満九、一石未満一八、無高一四。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by