改訂新版 世界大百科事典 「庄内藩」の意味・わかりやすい解説
庄内藩 (しょうないはん)
出羽国櫛引郡(1664年以後は田川郡)鶴岡(山形県)に藩庁を置く譜代藩。1622年(元和8)最上氏の改易後,信州松代藩主酒井忠勝が13万8000石で入部して成立。鶴岡,亀崎の2城のうち鶴岡城を居城として拡張,城下町の町割りを実施した。23年の総検地で5万3000石の出目を出し,これに対し遊佐(ゆさ)郡の農民は逃散して抵抗,34年(寛永11)遊佐郷大肝煎高橋太郎左衛門の上訴一件に発展した。46年(正保3)忠勝の弟忠重が兄の世子忠当(ただまさ)を廃して自子を立てようと陰謀し,忠当擁護派との間に御家騒動が起きた(長門守一件)。47年忠勝が病死して忠当が家督を継ぎ,同年松山藩2万石,大山藩1万石,82年(天和2)余目領5000石を分知した。初期に動揺した藩政は忠当の岳父松平信綱の指導で整備された。家臣団は約500人の家中(侍)と約2000人の給人からなり,家中の知行は蔵米知行制,物成や扶持米は米札で支給された。庄内は米単作地帯で,米は酒田港,加茂港から移出され,衣料,食塩,海産物,砂糖等を移入した。
藩財政は寛文ごろから悪化し,郡代高力(こうりき)忠兵衛は農政に新法を敷き,財政の再建に努めたが,苛政が巡検使に訴えられ失脚した。90年(元禄3)以後家臣に上米を課したが,財政難は解消せず,1776年(安永5)忠徳(ただあり)は酒田の豪商本間光丘を登用したが成功しなかった。96年(寛政8)郡代白井矢大夫を中心に農政改革を断行,貸付米金の切捨て,地主に対する困窮与内米の賦課,村上地(むらあげち)の主付(ぬしつけ)によって農村を立て直し,財政は安定して,江戸神田の上屋敷の所在地にちなんで神田大黒の異名を得た。1805年(文化2)藩校致道館を創立したが,学風は徂徠学であった。天保期は凶作が頻発し,33年(天保4)の大凶作では飯米の合積(配給制)で飢餓を克服した。しかし農村の疲弊ははなはだしく,38年農政改革を断行し,貸付米金を切り捨てる一方,高20石に1俵の与内米を新設し,飢饉に備えさせた。40年長岡転封(三方領知替)の幕命をうけたが,農民が激しい阻止運動を起こし,幕命を撤回させた。43年印旛沼疎水工事手伝いを命ぜられ,44年(弘化1)大山の酒屋主導の御料(天領)農民による庄内藩の預支配に反対する大山騒動が起こった。54年(安政1)品川沖御台場守備,60年(万延1)蝦夷地警備に当たり,63年(文久3)新徴組を委託され,江戸市中警備に当たった。66年(慶応2)郡中騒動(農民闘争)を押さえ,翌年主流派(松平親懐,菅実秀)は反対派を大断罪で一掃し(大山庄大夫一件),藩論を佐幕に統一した。戊辰戦争では本間家等の大地主大商人から軍資金を調達し,奥羽越列藩同盟の一員として新政府軍と戦ったが,68年(明治1)9月降伏した。酒井家はいったん滅家,12月特旨をもって家名を立てられ,忠篤(ただすみ)の弟忠宝(ただみち)に12万石を給された。同月会津若松に,ついで69年6月陸奥磐城平に転封を命ぜられたが,阻止運動を続け,翌7月70万両の献金を条件に庄内復帰を許され,同年9月朝命により大泉藩と改称された。
→酒井氏
執筆者:斎藤 正一
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