飽海郡(読み)あくみぐん

日本歴史地名大系 「飽海郡」の解説

飽海郡
あくみぐん

面積:六三五・五一平方キロ
松山まつやま町・平田ひらた町・八幡やわた町・遊佐ゆざ

県の北西部に位置する。現在地理上の名称として残る飽海郡域は、北は秋田県由利ゆり郡、東は最上郡真室川まむろがわ町・鮭川さけがわ村・戸沢とざわ村、南は最上川を境に東田川郡立川たちかわ町・余目あまるめ町、西は酒田市に接し、北西は日本海に面する地域で、四町から構成される。昭和八年(一九三三)酒田市が成立する以前は酒田市域を含み、北は由利郡、東は最上郡、南は田川郡に囲まれていた。東部は鳥海山と出羽山地が南北に連なり、月光がつこう川・日向につこう川・相沢あいさわ川などの中小河川が西流し山麓に多くの扇状地を形成して庄内平野を潤している。西部の海岸線は大部分庄内砂丘であるが、秋田県境近くでは鳥海山の溶岩流が直接日本海に達し、磯浜を形成している。南は最上川が西流し、途中相沢川が合流して日本海に注ぐ。国道七号が海岸沿いに、同三四五号が山麓沿いに、同三四四号が酒田市―八幡町間を走り、JR羽越本線が遊佐町・酒田市・平田町を通る。郡の成立時期は不明。「続日本後紀」承和七年(八四〇)七月二六日条に「奉出羽国飽海郡正五位下勲五等大物忌神従四位下」とみえるのが文献上の初出。訓は「和名抄」東急本の国郡部に「阿久三」とあり異訓はない。

〔原始・古代〕

先史時代の遺跡の多くは、鳥海山麓と出羽山地に発する中小河川の河岸段丘上に立地し、一部は海岸砂丘部にある。弥生時代の遺跡は少なく、縄文時代との複合遺跡として、鳥海山麓や海岸の砂丘から発見されている。天平五年(七三三)出羽柵は庄内から秋田村高清水岡たかしみずおか(現秋田市)に北進し、国府も八世紀中葉に秋田城にあったが、蝦夷の反乱が続いて九世紀初頭には庄内に後退した。「三代実録」仁和三年(八八七)五月二〇日条に「国府在出羽郡井口地」と記すこの井口の国府がそれで、比定地は酒田市の城輪柵きのわのさく遺跡とされている。同年朝廷から移転を命ぜられ、井口の東方三キロの八幡町市条いちじよう八森はちもり遺跡がその移転先と考えられている。国分寺跡としては、現八幡町法連寺ほうれんじどうまえ遺跡が有力な擬定地となっている。「延喜式」兵部省の諸国駅伝馬条にみえる飽海駅は現平田町飛鳥あすかに、遊佐駅は現遊佐町小原田おはらだに比定される。鳥海山を神体とする大物忌神と月山神は、蝦夷の反乱など怨敵降伏や凶事を鎮める国家鎮護の神々として、とくに国府の北方に位置したこともあって、朝廷の保護を受けた。月山神はもともと田川の月山の神であったが元慶の乱の頃、飽海郡の神とされ大物忌神と合せて両所宮と称された。


飽海郡
あくみぐん

「続日本後紀」承和七年(八四〇)七月二六日条に「奉出羽国飽海郡正五位下勲五等大物忌神従四位下」とある。「和名抄」刊本によれば「阿久三」と読む。大原おおはら・飽海・屋代やしろ秋田あきた井手いで遊佐ゆさ雄波おなみ由理ゆり(刊本は日理)余戸あまるべ(高山寺本なし)の郷名をあげる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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